著者:中井 一夫
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世界を震撼させた戦後最大級の銃撃事件を主人公の独白で綴る
1980年~2022年の主人公の複雑な生い立ち・心理・行動を独自分析。主だった出来事・事実を網羅して、独白(モノローグ)による逸早く中編小説に。重大事件の核心を読み解く。
【本文より】
母も夜などビールを飲むことがあって、子供たちの前でたちまち明るく冗舌になるのだが、しばしば大きな壺を隣の部屋から持ち出してきて、
「神様の御心が映された、この高貴な骨董品のお陰で、みんなは幸せに暮らしていけるのよ」などと話すのが常だった。
そんなときの母はひときわ上機嫌で頬は薄紅色に輝いて見えた。
中学生の徹也が指先で艶やかな壺に触ろうとすると、
「信仰を大切にし、真心をこめて触らないと駄目よ! 邪心とかサタンの心で触ろうとすると、たちまち痛いと感電してしまうから!」
びっくりした徹也が、
「感電?」と問い返すと、
「ええと、感電というより……」と母は壺を見つめながら口ごもってしまった。
「怖いサタンがやってきて、地獄に落ちると言いたいんでしょう」と徹也は喉元まで出かかったが、何も言わず仕舞いだった。
その日から母の留守中に、「一週間に一回ほど壺を布で奇麗に磨くように」と母に言われたものだったが、徹也が忙しいときは妹に手伝ってもらったりした。
徹也の勉強机の上にもほんの小さな壺があって、「テストで良い点数が取れますように!」と本気でお祈りしたものだった。病身の兄のベッドのかたわらにも小さな壺が置かれていた。
一度大きな壺を手から滑らせ落としそうになって縮みあがる思いをしたが、――それから三十年近い歳月が流れていた。
「そしていまや覚醒した俺は、たとえ高貴で高額な壺でも一個の無機質な物体と解していたが、サタンへの恐怖心から高額な壺を買わされて家庭がめちゃくちゃになった俺は教団への恨みや怒りを募らせていった。しかし俺は母を心底恨むことはできなかったし、教団の熱心な信者である母を、俺の怒りの鉄拳の標的にすることなど絶対できなかった。なぜなら、母がどんなにいかがわしい、浮薄な、身勝手な、あるいは家族を破綻へと導いた存在であっても、俺の心の中では、母は一人の天使であったからだ。たとえ人を惑わす邪悪な天使であったとしても……。そしてこれから始まるであろう教団との戦いで、まさに迷える子羊たる母を洗脳から解放しなければならない。信仰や教義を寝ても覚めてもこよなく愛する母を、まっとうな人間世界に連れもどすために、ときには銃を持って戦わねばならない。たとえば名だたる冬のアルプスの山々を走破するほどの困難をともなう母の洗脳からの解放は、唯一、銃でのみ可能ではないか、と感づいたとき、俺の心の中の怒れる獅子は目覚めた。しかも愛されることを放棄した墜ちた俺にとって、母親の洗脳からの解放は俺の無二の夢となり、一方まぎれもない俺の人間愛でもあると感じた。そうすると俺の血はたぎり、心は震え、今日にでも、怒りの銃で決着をつけねばならぬという俺の決心はますます堅固なものになった」
「元首相の選挙応援演説は駅北口で午前十一時半頃だ。九時半過ぎにこの部屋を出ようか」
と机上のパソコンを立ち上げると、見慣れた某巨大掲示板は相変わらず現首相や政権などへの誹謗中傷で溢れ、敵地へ赴く徹也を勇気づけた。否、それらがほんの一部の人たちによるいわば偽物まがいの投稿であっても、この決行の日に及んで、現実世界のすべての事象を味方につけねば、口が渇き、心臓が高鳴って、足腰が砕けゆくほどの単身の体をもって直立して歩くことなど困難ではないかと錯覚されたほどだ。
「すなわち、俺はたとえたった独りでも、単独での襲撃であっても、この世の中で俺を慕い、愛してくれる人の一人もいない天涯孤独であっても、一瞥して街中でおどおどした振る舞いや歩みであっても、心の中では身命を賭して戦う、たった一人の聖者の行進をせねばならない。それは死にゆく俺に対する神の最後の思し召し、そして天から降りそそぐ俺という無名の弱者の特権であるはずだ」(続く)
*この物語は実際に起こった出来事(事実や事実関係)をもとに制作したものですが、如何なる特定の個人・団体をも誹謗中傷しようとするものではありません。
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