著者:塩原俊彦
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制限字数内で紹介できる「はじめに」の一部は下記の通りである。
「若者、バカ者でございますね。ええ……。若者、バカ者」
駿台高等予備校の名物英語教師であった鈴木長十の口癖だ。もう三〇年も前の話だが、なぜかとても懐かしい思い出だ。挑発的な言葉にどことなく反発を覚えたからこそ、いまでも思い起こせるのだろう。この教師がなぜこんな言い方をしたのかよくわからないが、英文解釈もままならない若者をバカと呼ぶことで、かれらを鼓舞しようとしたに違いない。
ぼくも、もう五十歳を過ぎたから、そろそろ、若者を励ますために挑発的な本でも書いてみるか。それが本書執筆のきっかけだ。もちろん、「バカ学生」だけではなく、バカな大人も対象にしたいところだが、まあ、もうあまり人生の残り時間の少ない人を挑発しても意味があるとは思えないので、とりあえず「バカ学生」に向けて書くことにした。
「バカ学生」と呼び掛けられて、いい気持ちをもつ者はいないだろう。ここでぼくが「バカ」といっているのは、「自らの無能、愚かさに気づいていない人」のことである。実は、このバカの定義にあてはまる人はきわめて多いのではないか。ぼくは新聞記者を十年以上してきたから、おそらく千人以上の人々に直接、会って、取材をしてきたが、自らの無能によく気づいて、その無知を克服すべく地道な努力をしていると感じさせてくれた人は十人くらいしかいない。それほど、バカが多いのである。
「近頃、バカが多くて疲れませんか」
という桃井かおり(ぼくの大好きな女優だけど、いまの若い人はしらないかなあ)のCMはすぐに放送中止に追い込まれてしまったが、このCMに抗議したような連中はみな、大バカ者だ。「テレビをみる暇があったら勉強しろ」。「抗議するエネルギーがあるなら、自分を磨くことに使え」と言いたい。
大学で教えていると、大学生のすべてはバカではないかとさえ思えてくる。自らの愚かさを学力のなさと誤解して、表面上、バカと感じることはあるのかもしれないが、まず自分がバカであるという出発点に立てる人が少ない。バカであるとわかっていても、その愚かさを克服しようとする努力する人はもっと少ない、加えて、教える側も自らが「バカ」であると認識し、それを乗り越えようと努力していない。つまり、バカがバカのまま、バカによって再生産されている状況が広がっている。
バカ学生よ。ついでに言っておくと、ぼくは学力のことなど、問題にする気はさらさらない。学力なんか、ほとんど意味はない。なぜか。ぼくは仕事柄、東大卒のエリートに何人もあってきたが、大学を出て十年、二十年たつと、その九九%がただの人になっている。自分がバカだと自覚して、よく努力するという姿勢を貫いている人がほとんどいないのだ。新種の天下りとして、官僚が大学の教員になるケースが増えているが、こんな連中の多くは役所の支援を失った途端、研究らしい研究などまったくできない。そう、かれらの多くは役人として出世する途中で、自らがバカであることを忘れ、部下の資料に目を通すだけの凡庸な人物に成り下がってしまったからだ。大学に放り出された途端、自分の無能を自覚して「強烈な努力」を怠ってきたツケが回って、大した研究もできずにいる。
宮崎輝に学べ
ぼくのことをかわいがってくれた人に宮崎輝という人がいる。宮崎さんは「ヘーベルハウス」で有名な旭化成工業の社長を二四年務め、実力会長として七年間、会社の経営にもあたってきた。 ぼくが宮崎さんを頻繁に取材したのは一九八八年から八九年にかけてのことだ。安い韓国産ニット製品の日本への流入を防ぐため、ダンピング提訴問題が起きた。宮崎さんは日本繊維産業連盟会長として、提訴した日本側の最前線に立って指揮していた。当時、ぼくはかれが頻繁に利用していた帝国ホテルで何度もかれに会った。午前一時すぎに電話をしても、すぐに電話口に出た。こんな深夜でも、帝国ホテルの部屋から陣頭指揮していたのだ。
そのかれに対しては、「ワンマン」の権化のように批判する声も聞かれた。
「長すぎる。体力も知力も気力も、掛け算だと思う。知力だけは衰えないと思っても、体力や気力が駄目になれば、知力も急速に衰える」
という日経連の永野健会長(当時)の宮崎評がその典型であった。
しかし、「労害もあるかもしれないが、若害だってある」と、批判する気概を宮崎さんはもっていた。臨時行政改革推進審議会(新行革審)などの委員として、政府に対しても歯に衣着せぬ注文をつけてきた。役人が後ろで糸を引いている審議会のあり方を痛烈に批判したり、野党の不勉強を叱ったりした。小粒になった財界人のなかで、ひときわ異彩を放っていた。
ぼくは宮崎さんを尊敬している。「ワンマン」といわれながらも、他人の発言に耳を傾ける姿勢はすごかった。ぼくの話を聴きながら、メモをとることだって平気だった。老眼のために、拡大コピーした資料をテーブルのうえに置きながら、その資料に書き込みをしていた。
ぼくの友人が各社の取締役会の実情を調べたことがある。もう二〇年以上も前の話だが、かれによると、もっとも談論風発とした会議が行われていたのは、旭化成だという。住宅担当の副社長であろうと、医薬品の話ができなければいけないし、財務問題にも詳しくなければならない。株主から付託を受けた取締役がその責任において議論するという姿がそこにはあった。「自分は目をつぶって聴いているだけ」と宮崎さんは言っていた。
もちろん、宮崎さんの独断で経営方針を決めることもあったろう。しかし、かれは世間の風評とは異なり、決して「ワンマン」な人物ではなかったと、ぼくは信じたい。自らの愚かさを知り、よく他人の話を聴く人だったのだ。
耳を傾けよ
バカ学生よ。ぼくが宮崎さんについて紹介したのは、その他人の言うことに耳を傾ける姿勢が大切だと強調したかったからだ。そして、自らの愚かさに気づき、努力することの大切さを知ってほしかったのだ。新聞記者という、人に会って話を伺う仕事をしていて気づくのは、他人の話をよく聴ける人とそうでない人がいるということだ。頭のいい人ほど、他人の話を聴かない傾向があるかもしれない。しかし、自分だけで考えるには、限界がある。部下の話に素直に耳を傾け、よく考える姿勢をもった人が実はあまり多いとはいえない。偉くなるにつれて独断専行になり、他人の話に関心を示さなくなる傾向があるのではないかな。
バカ学生よ。だれにでもいいところはあるはずで、他人のいうことをよく聴いてみることを薦めたい。大学の授業ももちろん、よく吟味しながら聴くことだ。そうすれば、きっといいことがあると思うよ。まあ、本当にひどい授業がたくさんあるようだけどね。
人の話をよく聴くという意味で印象に残っているのは、東レの社長だった前田勝之助さんかな。にらみつけるような深い眼差しでぼくの質問に耳を傾けたうえで、噛みしめるように話した。かれはバブルにあって、東レの資産を高く売却し、人員整理を円滑に推進して、その後の東レの財務体質強化に結び付けることに成功した。おそらく日本の経営者のなかで屈指の存在として歴史に刻まれるべき人物だろう。「聴き上手」なところに、素晴らしい発想が生まれるのだ、きっと。
理解と疑問
そのためには、謙虚な姿勢が大切だ。だが、謙虚に他人の話に耳を傾けるだけではダメだ。つぎに必要なのは、その話を理解することだ。だが、理解するには、聴いた話について、自分自身のなかで疑問はないか、問うことが求められている。言い古されたことを繰り返せば、「学問」は「まなぶ」という「まねる」ところからスタートして、「問う」というクエスチョンを突きつけることで、はじめて機能するのだ。つまり、疑いをもたなければ、学問は成立しない。
大学で教えていてつくづく思うのは、内省する力が衰えているという現実だ。声に出して本を読むことを薦めた本がベストセラーになって以降、人々はますます内省力を失っているように思う。心のなかでもう一人の自分に問いかけるという、近代化の過程で人間が身につけた「術」を鍛えない結果、人間は退化しているとさえ思えてくる。
おまけに、インターネットに代表される電子情報に基づく「高度情報社会」の到来で、人間の脳は着実に「やられている」。
ニコラス・カー著『ネット・バカ』という本がある。ぼくは、The Shallowsという、「浅瀬」を意味する、翻訳前の英語の本しか読んでいないけど、たしかに電子情報化はバカを大増殖させるのに一役買っているように思われる。とくに、検索エンジンの発達で、検索を安易に行うようになった結果、研究者の参考文献の参照範囲が狭まる結果をもたらしているという指摘は興味深い。みんな安易になってしまって、ピンポイントで検索しようとするから、検索にかからなくても興味深い関連事項に出会う機会が失われてしまっている。「問う」姿勢が狭まっているから、目的に向かって短時間に到達する利便性の優先に何の不可思議さも感じなくなっている。あるいは、目的を実現する手段を選ばぬ姿勢が検索への安易な依存を高め、それが疑う姿勢を脆弱化させている。
「ネット・バカ」にならないために
電子情報化がますます広がるなかで、「ネット・バカ」にならないためには、正確にいえば、「ネット・バカ」になりつつあると気づくためには、①自分がバカであることをよく自覚する、②その愚かしさを克服するために、他者の話に耳を傾ける、③その話
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