著者:竹内恭子
ページ数:216

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 スターリンによる大恐怖政治下のレニングラード。三一歳になるリージヤは、帝政時代に一世を風靡した美貌の女流詩人アンナ・アフマートワを訪れる。子供の頃からアンナの詩に傾倒していたが、今回の訪問の目的は別にあった。彼女の夫は秘密警察に逮捕され、消息も絶たれて久しかった。一方アンナには革命政府によって銃殺された夫との間に一人息子レフがいる。レフは無実の罪で再三逮捕され今も獄中にいる。リージヤは夫の無実を証明するための奔走に余念がない。アンナの許を訪れたのもそのためであり、一方では憧れの詩人と会えることへの期待に胸を膨らませていた。ところが今は集合住宅となった帝政時代の貴族の館の別館に身を寄せていた詩人は貧困のどん底にあった。革命以来、すでに十数年もの間、詩を発表することも、出版することも、書くことさえも禁じられていたので、収入の道は閉ざされていた。銃殺された夫の妻であったから「人民の敵」の妻と見做され、社会主義国家建設には無用な存在であった。息子のレフは「人民の敵」の息子である。リージヤはアンナが月に一度、刑務所前の長い差し入れの列に並んでいることを知った。受刑者の安否は、窓口係を通して差し入れが受け取られるまでは知らされることはない。列に並んでいる女たちは、世にも不幸な立場にありながらも、あたかも、まったく個性のない同じ仮面を被っているかのごとく、どの顔にもいかなる苦悩も浮かんでいなかった。反抗的な態度を示すならば、獄中にいる身内にも累が及ぶだろう。アンナはすでに九カ月を仮面の列の中で過ごしてきた。呆然自失の状態で列に並んでいるうちにも、彼女の脳裡を帝政時代の華やかな生活や大勢の恋人たち、少女時代の想い出が過ってゆき、時には悲しい幻想に胸を引き裂かれた。白夜の夏にはレフに死刑の判決が下った。猛暑の七月には死刑は取り消され、アンナは列の中の名も知らぬ女から、この有様を書けないかと密かに依頼される。年明けにレフのシベリア送りが決定した。アンナは民衆の一人として仮面の列のことを詩に書き始めた。いや、頭の中だけに書いたのだ。リージヤがアンナを再訪し、夫が半年以上も前に銃殺刑で死亡していたことを告げた。彼女は非常に聡明であり、相変わらず自分の詩を最も愛してくれている。アンナは決意した。詩は自分の生前には活字になることはないだろう。スターリンの死後も、次の指導者に期待することは出来ない。アンナは自分より二〇歳も若いリージヤに「語り部」となって、自分の詩を頭に記憶してくれるよう懇願した。以来、不思議な儀式が展開された。詩人は詩を新聞紙の余白などに書き連ねる。それをリージヤが記憶する。それから二人の女は無言で目と目を見交わし、それを灰皿の中で燃やすのだった。

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