著者:横木安良夫 + 13PHOTOGRAPHERS
¥500 → ¥0
参加写真家
TERUYO FUKUMOTO AKIKO KURATA HIROFUMI SAEKI
HIROMI WASA HIROYUQUI TACHIHARA NORIKO ONIZUKA
SHIGEAKI AONO TATSUYA SATO TERUMASA ARIMA
TOSHIMICHI KUWAHARA YUICHI OIDE YUTA HIRAKUBO
YOSHINORI KAMEI ALAO YOKOGI
CRP JAPAN 横浜界隈 山下公園 中華街 元町 山手 千葉県市川市に住んでいた子供時代に横浜の記憶はない。「赤い靴」に象徴される、遠い異国のように感じていた。実際行くには、国鉄(JR)で乗り継いで行くしかなく、距離的にも遠い街だった。初めて横浜を訪れたのは大学生1年、1967年だったろうか。クルマの持っているサークルの友人たちと行った。予想通りの映画のロケーションのようなエキゾチックな場所だった。 1968年1年間の学園封鎖の最中に自動車免許を取った。再開した翌年、茅ヶ崎に住むガールフレンドができた。演劇学科だった彼女と散策した。人気のない引き込み線のある倉庫街が好きだった。中華街は食べには行ったが写真は撮っていない。アシスタント時代は、撮影で行ったとしても、クルマでピンポイントの撮影だったので覚えていない。 横浜に頻繁に通うようになったのは、月刊プレイボーイの取材で小説家矢作俊彦と出会ってからだ。彼を通じて初めて横浜の細部を知った。日活映画ファンだった矢作は、セリフまで記憶していた。彼のお気に入りは、東神奈川にあったBarスターダストとポーラスターだった。クリスマスはそこでパーティをした。 当時僕たちは30代前半、矢作は横浜を舞台に映画を撮りたがっていた。いくつかの脚本があり、ロケハンに何度もつきあった。1984年日活創立70周年で日活アクションのアンソロジー映画「AGAIN」が制作された。矢作は構成、脚本、監督を任され、日活映画戦後の第1作「かくて夢あり」から「8月の濡れた砂」187本をすべて見たという。そこから27時間の名シーンを抜き出し102分に仕上げている。その中で、狂言回しとして宍戸錠を登場させ、その分の映像を僕が撮っている。印象深いのは深夜NewGrandの前の山下公園通りを通行止めにして、道路の中央にクレーンを配置してハイアングルから撮ったことだ。 そんな風に、僕にとって横浜は、矢作俊彦の世界そのものだった。 あの頃は、まだ横浜といえば、今回回った山下公園通りと、中華街、元町、山手、あと親交埠頭そして本牧かな。もちろん桜木町や伊勢崎町は賑わっていても、どこか演歌でも似合いそうなおしゃれな場所ではなかった。それにかつての横浜は、道路がわかりにくかった。いや華やいだ場所と、埋め立ち地の荒涼感が写真やドラマの背景として魅力的だった。 今の横浜は、ベイエリアが中心に思える。それでも魅力から言えば、やはり山下公園、中華街、元町、山手なんだろうな。
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