著者:曽田博久
ページ数:113
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天文12年、出雲の戦国大名尼子晴久は石見国の岩山城主を決めようとしたが、みな尻込みして誰一人として城主を受けようとする武将はいなかった。岩山城は石見と出雲の国境にある小城であるが、国境を守り大森銀山を守る重要な使命を持っていた。大内毛利の連合軍の侵攻必死の今、この城の城主になることは命と引き換えに戦うことを意味していた。山陰道を攻めて来る大内毛利の大軍を一兵たりとも出雲に入れてはならない。岩山城は死んでも守り抜かねばならない城だったのである。
いかに尼子の勇将といえど死ぬことが分かっている城に自ら望んで入ろうとする者はいない。重ぐるしい長い沈黙が続いた。居並ぶ武将たちの誰もがその長い沈黙に耐え切れなくなった時、ひとりの武将が手を上げた。その男が多胡辰敬である。だが、この武将は決して武勇を誇る武将ではなかった。連歌が得意な文の人で内政や外交の分野で能力を発揮して来た。若い時に長い間、諸国を旅した変わった経歴を持っていることでも知られていた。辰敬が手をあげたことに尼子晴久も居並ぶ武将たちの誰もが驚いた。これほど岩山城の城主にそぐわない、場違いな男はいなかったからであるが、誰も手を上げないのだから岩山城主は多胡辰敬に決まった。
ところで、この多胡辰敬という武将は岩山城のあった島根県の大田市や戦国史ファンの一部では知られた人物である。
「命は軽く名は重い」と言う言葉を残し、「家訓」を書いたことで知られている。この「家訓」の存在を最初に世に紹介したのは哲学者の和辻哲郎である。戦国時代、島津氏や武田氏、前田氏など多くの有名な戦国大名は「家訓」を残したが、ほとんど無名の一武将で「家訓」を残したのは多胡辰敬だけである。その意味では学術的にも意義のある「家訓」と和辻は評価している。
多胡家にはこのほかにも面白い逸話がある。
辰敬のご先祖には将棋の名人がいて、将棋以外の碁や双六などでも無敵であった。あまりにも強いので世に「多胡博打」と呼ばれ、博打の神様とあがめられたのである。その血を受け継いだのか、辰敬少年も将棋の天才児であった。
この物語は一人の出雲の将棋の天才児が岩山城で最期を迎えるまでの長い長い物語の第一章である。
いかに尼子の勇将といえど死ぬことが分かっている城に自ら望んで入ろうとする者はいない。重ぐるしい長い沈黙が続いた。居並ぶ武将たちの誰もがその長い沈黙に耐え切れなくなった時、ひとりの武将が手を上げた。その男が多胡辰敬である。だが、この武将は決して武勇を誇る武将ではなかった。連歌が得意な文の人で内政や外交の分野で能力を発揮して来た。若い時に長い間、諸国を旅した変わった経歴を持っていることでも知られていた。辰敬が手をあげたことに尼子晴久も居並ぶ武将たちの誰もが驚いた。これほど岩山城の城主にそぐわない、場違いな男はいなかったからであるが、誰も手を上げないのだから岩山城主は多胡辰敬に決まった。
ところで、この多胡辰敬という武将は岩山城のあった島根県の大田市や戦国史ファンの一部では知られた人物である。
「命は軽く名は重い」と言う言葉を残し、「家訓」を書いたことで知られている。この「家訓」の存在を最初に世に紹介したのは哲学者の和辻哲郎である。戦国時代、島津氏や武田氏、前田氏など多くの有名な戦国大名は「家訓」を残したが、ほとんど無名の一武将で「家訓」を残したのは多胡辰敬だけである。その意味では学術的にも意義のある「家訓」と和辻は評価している。
多胡家にはこのほかにも面白い逸話がある。
辰敬のご先祖には将棋の名人がいて、将棋以外の碁や双六などでも無敵であった。あまりにも強いので世に「多胡博打」と呼ばれ、博打の神様とあがめられたのである。その血を受け継いだのか、辰敬少年も将棋の天才児であった。
この物語は一人の出雲の将棋の天才児が岩山城で最期を迎えるまでの長い長い物語の第一章である。
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