著者:横木安良夫
¥500¥0

横木安良夫写真集SCRAPS 1949-2018  2022年 新編集版

デジタル写真集で何かができるのかを考えた写真集です。
紙の本では、このような写真集は様々な理由で作れません。
実験的な写真集です。
約350点の写真が収録されています。

一番深いところに、テーマがありますが、普通に考えれば雑多な写真の集積です。
だからタイトルがSCRAPS なのです。
人物、スナップ、風景。あらゆる写真が羅列されています。
これは単なる記録ではなく、ここに写っていることと、写っていない子、
撮影した僕と、この写真を見る人のギャップ。

写真にわかりやすいテーマが必要なのか。コンセプトの奴隷の写真が面白いのか。
期間限定で、約1月、¥500で販売します。以後は ¥1500を予定しています。

KINDLEで写真集を作る理由は、実験ができることです。それと、売り上げなど、かなりわかりやすくなりました。

kindleアンリミテッドに入っている方は、無料で閲覧できます。
パソコンの場合は、kINDLE CLOUD READER でご覧になってください。
スマートフォンは、無料のKINDLE アプリをダウンロードして、ご覧ください。
現代の、例えばIPHONEでも十分楽しめます。

SCRAPS 1949~2018  横木安良夫
そこから眺める風景は、蛇行した江戸川と対岸の河川敷、その先の堤防の
背後にひろがる煙のフィルターに霞む葛飾の町工場、それらがどこまでも
広がっていた。天気のよい夕景はシルエットになった富士山が小さく見え
た。ツツジが咲き乱れる崖を駆け下りるとすぐに川面にたどり着いた。土
砂を運んでいるのだろう、ポンポン蒸気船がひっきりなしに往来している。
国府台台地の端に建つ保育園は兵舎を改造した木造の古い二階建てだった。
室内は簡素だったが広々として天井が高かった。室内には大きな積み木や
西洋の樽など、当時の日本の玩具とは全く違うもので溢れていた。すべて
がアメリカのルーテル教会から寄付されたものだと大人になってから知っ
た。ぼくはアメリカ製の遊具や玩具で一日中遊んだ。時々悪さをすると樽
のなかに放り込まれた。泣きながら見上げると樽の丸いフレームから不気
味な木目模様の天井が見えた。屋外は砂場と滑り台があった。時々カメラ
を持った人が現れて写真を撮った。ワシントンハイツの写真館から派遣さ
れてきたらしい。それも後で知ったことだ。すぐ隣が私立一中で、下校時
間には、幼児たちの撮影が珍しいのか、生徒たちがフェンスに鈴なりにな
り一緒に写っている写真がある。
クリスマスは大イベントだった。ぼくは4歳のときヨセフ、6歳の時に三賢
人、博士を演じ「わたしは乳香をさしあげます」というセリフまであった。
そんな環境で賛美歌をたくさん覚えた。幼稚園を経営していたのはエーネ・
パウルスだ。ぼくたちはパーラス先生と呼んでいた。すでにその頃はシル
バーの髪をなでつけた60歳ぐらいの品のいい初老の外国婦人だった。簡単
な日本語を話したが、知らないことばも聞こえていた。
ぼくはパーラス先生が戦後マッカーサーと一緒に日本にやって来たのだと
思っていた。ところが大人になって調べると大正時代、20代で日本に宣教
師としてやって来ている。コロンビア大学で神学を学び、社会の役にたと
うと海外布教を望んでいた。行くべき候補は二つあった。ひとつはアフリ
カ、そしてもう一つが日本だった。アフリカは貧しく、日本は女性の人身
売買が有名で心を痛めていた。
すでにパウルスの姉が九州で先に宣教師をしていたいので日本に決めた。
姉の手伝いをしたのちに市川にやってきた。そこで教会を建て孤児院を作
った。太平洋戦争末期には、オーストラリアに逃れた。
日本の敗戦後、GHQの制止を無視して市川に戻ってきた。そして保育園や
孤児院を作った。たとえ聖職者といえ、今思えばとんでもない偉人だった
のだ。65歳の定年をもってアメリカに帰った。それからしばらくして保育
園は(内容的には日本の幼稚園とは比べ物にならない素晴らしい設備だっ
た)認可幼稚園となり、ごく普通の日本の幼稚園になった。パーラス先生
の帰国後も孤児院や女性のための施設は今でも機能している。
3月生まれの僕は、小学校に入ると問題児になっていた。なにしろ保育園で
3歳から6歳まで毎日自由に遊び回っていた。小学校の教室の椅子に縛り付
けられることが耐えられなかったのだろうか。実はよく覚えていない。結
果、しょっちゅう廊下に立たされいつも先生にビンタされた。ある時、顔
に手のあとがあることに驚いた、新聞記者だった父の友人の通信局長が、
民主主義時代に暴力なんてけしからんと教育委員会に訴えると大騒ぎにな
った。母親は僕の悪行を知っていたのでただでさえ肩身が狭いうえに学校
で深刻な問題になり、とても迷惑だったという。その先生はそれが原因だ
けではないそうだが、翌年違う小学校に転勤になった。
その頃の僕は記憶のなかの風景で教室を歩き回来回っていたことは覚えてい
ても、自分の心の中はまったく覚えていない。   2018年50年ぶりに小学
校の同窓会があった。その時出席はしていなかったが、連絡先がわかった
Y子に後日会った。彼女は僕にとって特別の女性だった。最初は忙しいので
会えないと言っていたが、結局あってくれることになった。
荒川区のレストランで再会した。70歳とは思えないほどしゃんとしていて美
しかった。顔の輪郭はそのままちょっとジョージアオキーフに似ていると思
った。彼女は高校卒業後、1年間就職しお金をため、貨物船でアメリカに渡
った。2年と3日アメリカに滞在した。そのとき定年したパーラス 先生のと
ころに遊びに行ったという。自給自足する生活の手伝いをしたという。ぼく
をビンタした先生を、Y子は悪くいわなかった。彼女の祖父が経営していた
姉ヶ崎の海の家によく遊びに来て一緒に遊んだという。昔からY子は寡黙だ
った。母親が特別おしゃべりだったのでそれがいやだったと言った。美人で
運動神経がよく、男勝り、勉強もできた。ぼくはY子が好きだった。少し素
行の落ち着いた3年性の夏休み朝11時ごろ出勤する父親と顔を合わせたくない
ので、毎朝6時に起きてはY子が寝ているのをたたき起こした。そして午前中
一緒に遊んだ。彼女の家の周りはまだ住宅もなくかっこうの遊び場だった。
彼女に言わせると、低学年の時のぼくは、とても困った存在だったらしい。
暴力的で落ち着きがなく、彼女は何度も噛まれたという。ところが彼女の母
親は、ああいう子は寂しいのだから、嫌わないで優しくしなくては、と言わ
れそれを守った。どうやらしかたがないので優しくしたらしい。彼女にすっ
かり懐いていたぼくは、実は彼女の寛容さの成果だと知り驚いた。好意の逆
だったのだ。クラスが変わると疎遠になったが、時折話をした。ぼくが大学
に入り学園紛争の頃だったろか、彼女がアメリカから戻ってきて連絡があった。
家の前で会うと、リガフォンのセールスをしていた。僕がnudeを撮らせてほ
しいと冗談でいうと、危険な人物だと思い、友達リストから外したという。
たしかにそれから音信不通になった。
Y子はその後も,複雑な人生を力強く生きていた。20代は華やかに、その後
は波乱万丈、そしてその人生はといつも誰かのために生きていた。今は94歳
と102歳の両親の介護に振り回されているという。
そうか、幼かったぼくも彼女の寛容の中で生きていたのだった。
Y子は40代後半で二種免許を取りタクシードライバーになった。離婚し今は2回
目の結婚をしている。いまでも週に何回か昼間だけタクシードラバーをしてい
るといった。運転が好きだからだという。売り上げは気にせず、自分の好き
なところを毎日ドライブしていると言った。 小学校3年になり落ちついたこ
ろ、日本ではテレビの創世期となりそれは生活の一部になった。その頃ドラ
マはほとんどがアメリカのホームドラマだった。「デズニーランド」「名犬
ラッシー」「名犬リンチンチン」「ララミー牧場」「ローハイド」「パパは
なんでも知っている」「パパ大好き」「スーパーマン」「ルート66」「ちび
っこギャング」「ガンスモーク」「ビーバーちゃん」「うちのママは世界一」
「ボナンザ」数え上げたらきりがない。

=後略=

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