著者:漢音
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1860年のアロー戦争の時、北京を攻撃したイギリスとフランス軍は、円明園(えんめいえん)から清朝皇帝の最大の芸術宝蔵を略奪した後、円明園を燃やした。その略奪文化財はヨーロッパで販売され、膨大な資料を備えたので、イギリスとフランスで中国の古典芸術を研究ブームが始まった。
イギリスの建築家、版画家とデザイナー であるOwen Carter Jonesは、The South Kensington museum(現在のヴィクトリア・アンド・アルバート博物館)にある中国の芸術品と他の中国骨董品の模様を整理し、1867年に『Examples of Chinese ornament』(中国装飾の実例)を出版した。
もっと多くの人に中国古典美術を理解してもらうため、この本を出版する。データが大きすぎるので、文様イメージを分けて出版。
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文字から歴史を読む、絵画から歴史を見る
1867年に『Examples of Chinese ornament』,1957に『中国演劇衣装の図案』、と1955年に出版された『中国建築彩画図案』の歴史背景について:
中国の伝統文様は古代中国人の生活環境、思想及び価値観の表現であり、題材は豊富で、そのほとんどに吉祥的な意味が託された。幅広く古典演劇の衣装に、建築と器具などの装飾に使われ、中国の古典文化の重要な構成部分である。
中国人は古典資料の整理と研究に手を付けるまで、本当に長い道のりだった。
1860 年、英仏連合軍は大清帝国皇帝の芸術の宝蔵円明園に侵入し、文化財をすべて奪ってヨーロッパに持って行った。彼らは持って行けなかった大きな重い財宝を破壊した後、円明園宮殿を燃やした。
戦争の略奪品はヨーロッパで英仏軍の軍人によって販売され、その時からフランスとイギリスの博物館に多くの貴重な中国の古典芸術作品が現れた。
フランスフォンテーヌブロー宮殿の「中国美術室」は1863年に、ナポレオン3世の皇后ウジェニーがつくらせた。コレクションのほとんどは、フランス遠征軍が持ち帰った戦争略奪品である。
同じ時期、イギリスの建築家兼デザイナーOwen Jonesがイギリス南ケンジントン博物館にある中国の文化財の文様を整理し、1867年に『中国装飾文様』を出版した。
1900年、8カ国連合軍は北京侵略したとき、清朝皇帝の芸術宝蔵は再び略奪され、ヨーロッパに持って行かれた。
清朝末期、沢山の中国人はヨーロッパに留学に行って、そこで、中国の古典文化の素晴らしさに衝撃を受けたのは西洋人だけでなく、中国人でもあった。当時の中国人は清皇帝の芸術コレクションを研究する機会がなかったからだ。
1912年、中国最後の王朝「清(しん)」が滅びた、全領土を平和に引き継ぐ条件として、ラストエンペラー愛新覚羅 溥儀(あいしんかくら ふぎ)は皇居の紫禁城(しきんじょう)に住み続けることを新政権によって許されたが、1924年の秋、ある日、突然軍閥(ぐんばつ)が銃を持って皇居に入って、溥儀を追い出した。
当時の上流社会は、その事件の黒幕(くろまく)と言われた人物は、文化財を研究したい知識人たちであることを知っていた。その代表は、フランスに留学した李石曾(りせきそう)、とドイツとフランス両国に留学した北京大学の教長蔡元培(さい げんばい)であった。後難を恐れて、さらに李石曾は18歳の溥儀を殺しようと軍閥に提案した。
1925年李石曾は紫禁城を故宮博物院と改名し、その時から、中国人はやっと豊富な古典文化の研究をできるようになった。
1958年、中国の貧困と遅れに直面して、毛沢東は経済を回復しようと試み、市場原理を無視して、大躍進政策(だいやくしんせいさく)を始まったが、予期せず中国で大飢饉を引き起こし、相次ぎ餓死者を出すまで大失敗の結果になった。
物質の欠乏は指導層の恐怖心を招く。政権を安定させるための最も完璧な方法は、人々の思想を欠乏させることである。中国文化大革命の焚書坑儒(ふんしょこうじゅ)のような政治活動は、その悪循環の結果と言える。それによって中国の古典文化研究を荒廃させ、沢山の歴史資料を失った。
1957に出版された『中国演劇衣装の図案』、と1955年に出版された『中国建築彩画図案』2冊の本は文化大革命前の研究チームが古典資料を整理した上で、制作したものである。

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