著者:小さなヨハネ
ページ数:63
¥99 → ¥0
三位一体論では父なる神、子なる神、聖霊の三位は一体であると言います。それは ⚪=⚪=⚪ と並列的に三人の神を想定し、キリストは父なる神とは別の子なる神であると考えています。しかし本来神は唯一であり、このように (◎) 重層的です。つまり主イエス・キリストは父なる神御自身であり、聖霊御自身なのです。
私たちは霊魂、体、運動の三つから成っています。私たちは意志と理解(考え)が私たちの本質であり、それを魂、霊魂と言います。霊魂はまた霊的物質から出来ている体を持っていて、死ねばその霊的体で生きます。それは霊とも言われます。私たちは現在霊でもあり、霊的な体はこの世の物質的な体と重なっています。私たちの霊や霊魂は直接見えませんが、私たちの体と一体となって運動したり、声を発したりします。つまり霊魂とこの世の体は一体となって私たち自身を現しています。
神も同様です。神の霊魂を父、体を子、運動・働きを聖霊と呼んでいるのです。ですから私たちが私たち本人であるのと同様、主イエス・キリストは父なる神ご本人なのです。主はあたかも御自分とは別の方のように父と呼ばれ、父に祈られました。主が栄化される前、父と別人であるかのように、即ち子であるかのように謙遜に振る舞われました。これを「主の卑下の状態」(天界の秘義1999)と言います。それは御自身を栄化するために必要でした。私たちが再生する際、悔い改めて謙虚になるのと同じです。
聖霊についても、それは主から発する真理の力・作用・働きであり、実態は主御自身なのです。確かに主はあたかも別人のように聖霊を弁護者・聖霊・真理の霊(ヨハネ14・26、16・13)と呼ばれました。しかし、聖霊は主御自身の働きに他なりません。太陽の光と熱が太陽から発する働きであるのと同様です。
三位一体は一人の神の色々な面をそう呼んでいるだけです。三位一体論者は条件反射のようにキリストは「子なる神」だと言います。しかし、そもそも唯一の神に子がいるでしょうか? ではその子は神でしょうか? 神が万物の創造主でその子も神なら、その子も万物の創造主でしょうか? しかしその子は父の被造物ではありませんか? 子が父と同質であるなら、逆にその子は父を産めるのですか?
彼らは矛盾していても平気です。神は唯一であり、子を生む筈がないのです。「子なる神」とは私たちに見える神の姿、身体という意味です。私たちも本質は霊魂ですが、私たちを見るには私たちの身体を通して見るしかありません。英語に使役動詞というのがあります。レッツゴーのレットです。それはレット アス ゴーであり、私たちは私たち自身を行かせましょう、です。卵からひよこが生まれます。それは謂わば卵が卵自身をひよことして産んだのです。それと同様です。主は御自身で御自身を産んだのです。ひよこには親鳥がいますが、主に親はおられません。主は創造主・父御自身であり、その父御自身がこの世に御自身を産んで、出現されたのです。イザヤ書にそのみどりごは父であると明言されています。
イザヤ9・5
「ひとりのみどりごがわたしたちのために生まれた。
ひとりの男の子がわたしたちに与えられた。
権威が彼の肩にある。
その名は『驚くべき指導者、力ある神、永遠の父、平和の君』と唱えられる」。
ですから父を示してくださいと願ったフィリポに主はこう言われたのです。
ヨハネ14・9-11
「フィリポ、こんなに長い間一緒にいるのに、わたしが分かっていないのか。わたしを見た者は、父を見たのだ。なぜ、『わたしたちに御父をお示しください』と言うのか。 わたしが父の内におり、父がわたしの内におられることを、信じないのか。わたしがあなたがたに言う言葉は、自分から話しているのではない。わたしの内におられる父が、その業を行っておられるのである。 わたしが父の内におり、父がわたしの内におられると、わたしが言うのを信じなさい。もしそれを信じないなら、業そのものによって信じなさい。」
三位一体論を主張する人は皆、主が父御自身であることを知らないフィリポです。長年主を論じているのに主が父御自身であることに気づいていないのです。ヨハネによる福音書には主が父御自身であることを語っている箇所は枚挙に暇ありません。
「わたしと父とは一つである」(ヨハネ10・30)。
「『わたしはある』ということを信じないならば、あなたたちは自分の罪のうちに死ぬことになる」(ヨハネ8・24)。
「はっきり言っておく。アブラハムが生まれる前から、『わたしはある』」(ヨハネ8・58)。
『わたしはある』とはモーセに燃える柴の中から語りかけられた神、主が御自分のことを呼ばれた名前(出エジプト3・13-14)です。
掲示板でよく非クリスチャンやアンチクリスチャンの人から、それはサベリウス主義で異端だと言われます。私は三位一体論の分類を知りません。しかし、少なくとも非信者の人から異端だなどと説教される覚えはありません。主が神御自身であることを理解すると、もう三位一体論など意味を成さないのです。神はお一人と思っている異教徒の方が健全です。あるいは阿弥陀如来を信じる仏教徒の方が。皆知らずに同じ主を拝しているのです。万物の創造主はお一人に決まっているからです。三人の神を考える人は神は唯一という概念を破壊しています。それは神を否定することです。
では主はなぜそんな誤解を招くような言い方をされたのでしょうか? 初代教会の人々は主が神御自身であることを知っていました。しかし時代が降ると主が神であることを信じなくなります。主はそのことを予見されて、信じない私たちがそう思っているように父と子と聖霊と表現されたのです。これを「外観の法則」(天界の秘義3387他)と言います。信じない人にも主が神と何らかのつながりのある方だと思わせるためです。そうでなければ主について全く何も信じなくなってしまい、救えなくなるからです。
主が神であることなど端(はな)から信じない人たちは、人間が神という概念を創造したと言います。しかし被造物である人間が創造主を創造するのは矛盾です。あるいは、主はただの人間であったが、後に神格化されたなどと言います。もともと主は神であって、自分たちが主を人間化したに過ぎません。
当時神が唯一であることは常識でした。主が「私である」と言われると、捕縛吏たちは後ずさりして地面に倒れます(ヨハネ18・6)。それはエホバがモーセに言われた「私はある」(出エジプト3・14)と同じ言葉でしょう。そのお言葉に、主がエホバ御自身であることを信じなかった者たちでさえ、一瞬恐れおののく程神が唯一であることは当たり前だったのです。あとは主が神であると信じるか、信じないかだけです。大半のユダヤ人は信じなかったのですが、初代教会の人々は信じました。彼らは単純であっても、私たちよりはるかに健全な霊的知性を備えていました。彼らは三位一体論など考えもしませんでした。主を三神に分離する考え方から刑罰代償説や更に信仰義認説が発生します。父と子が仮に別人(別神)なら有り得るとしても(内容は非合理的ですが)、父と子が同じ神ならそもそも成り立ちません。
主が父なる神御自身であったという真理は、キリスト教の根幹です。主がペトロに、「あなたはペトロ。わたしはこの岩の上にわたしの教会を建てる」(マタイ16・18)と仰ったペトロ(石、岩)とは、ペトロ本人のことではなく、この信仰を意味しています。神を認識することが宗教の前提です。主が神御自身であることを知り、理解し、承認することがキリスト教の基礎の基礎です。その上に実践があり、教会があります。基礎が無いなら杭を打たない高層建築と同じです。それは危険な砂上の楼閣です。
キリスト教を論ずる人はたくさんいます。その人が本当に理解しているかどうかは、ひとえにその人が主を神御本人と認めているかどうかにあります。主をただの人間と言う人は論外です。三位一体論を持ち出す人も同様です。皆さんは、主が神御自身であることを理解している見神者たちの啓示書と、聖書に学ばねばなりません。そうすれば樹海を彷徨う危険性は格段に減るでしょう。またキリスト教を学ぶにはそれが最良の方法と考えます。なぜなら主は唯一の教師(マタイ23・10)であり、主はそれらの啓示を通して私たちに語られるからです。
目次
はじめに
1.内意
2.内意があることが分からなくなる
3.並列的 ⚪=⚪=⚪ ではなく重層的 (◎)
4.神の右手に座る
5.真理の外観
6.アブラハムの見た三人の天使
7.エロヒーム文書
8.アタナシウス信条
9.初代教会(使徒的教会、原始キリスト教会)
10.ギリシャ正教
11.神を分割するならそれは多神教
12.救う信仰
13.主が奇跡を行なわれる時に「わたしがこのことを行なうことが出来ることを信じますか」と聞かれた理由
14.キリスト教徒以外でも救われる
15.教会は異邦人のもとへ移される
16.「父と子と聖霊」と表現するのは仕方なかった
17.騙し絵
18.三位一体説の影響
19.「転嫁」とは善も悪もそれを為した者にその責めが負わされるという意味の「転嫁」
20.ホトトギス
21.他の証言
あとがき
シリーズ一覧
この期間中は料金が980円→0円となるため、この記事で紹介している電子書籍は、すべてこのKindle Unlimited無料体験で読むことが可能です。










