著者:福満 次郎 (著)
ページ数:287

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 比叡の山並が琵琶湖の西岸に沿い、なだらかな稜線を南下させる京都伏見。親鸞(しんらん)がうまれ育った日野寺はここにある。
 親鸞は生涯で五回名前を変えた。幼少期は松(まつ)若(わか)丸(まる)、出家して師の慈(じ)円(えん)から範(はん)宴(えん)と言う名を授かり、続いて法然の元で綽(しゃく)空(くう)・善(ぜん)信(しん)となり最後に親鸞と名乗った。物語は松若丸から始まる。

 九歳の春早朝、伯父範(のり)綱(つな)と慈円の待つ青(しょう)蓮院(れんいん)へと向かう牛車。それを曳く牛の尿(いばり)の生臭い湯気は、松若丸に堪えられない。
「どうして出家しなくてはならないのか……」
 伯父範綱の子は、誰も出家していない。
「両親が早く死に、五人の子総てが伯父に預けられた……」
 その事実は、幼い心に重くのしかかっている。
「無事にお着きになりましたか……」
 二人を出迎えた慈(じ)円(えん)は、若く才気走って見えた。
「わざわざのお出迎え、痛み入ります」
 範綱は腰が折れるほど頭を下げた。その仰々しい仕草は、名門藤原摂関家に対するもの。それというのも、慈円の兄基実(もとざね)・基房(もとふさ)はいずれも摂政関白の経験者であり、今の関白は基実の息子基(もと)通(みち)。そして、三番目の兄兼(かね)実(ざね)は、次期関白と目されているからだ。
 慈円は藤原北家の只中にあり、伯父の範綱がどうあがいても及ばない。松若丸は下級貴族の哀れさを、伯父のお辞儀の中に見て取った。
「朝廷に仕えるより、仏に仕えた方が自分に向いているのか……」
 へりくだる伯父の姿に、幼いながらそう自覚せざるを得なかった。それでも利発な彼は、思い切って切り出した。
「何事も得心がいかなければ、やる気はありません」
 慈円の顔を見上げ、こわばった表情で訴えた。松若丸がいきなり本音を口にし、範綱はあわてた。
「この子は真面目すぎて、少し理屈っぽいところがあります……」
 そうとり繕ったが、慈円はなんと大人っぽい児だと驚いた。
「いやいや、なかなかしっかりしたお児だ」
 慈円はそう云いつつも、意に沿わず出家しなくてはならない子を不憫だと感じている。一方の範綱は、松若丸の気持ちを薄々承知はしていたが、このまま共に引き返す考えなど微塵もない。伯父として一刻も早く、彼を置いて辞去したい。
「下級官僚とはいえ、昔ながらの文章博士の血は継いでいるはずです」
『学問の日野家』という矜持を持ち出し、後は総てを慈円様にお願いすると言い残し、範綱はそそくさと青蓮院を後にした。(冒頭より)

目次

一章   比叡のお山
二章   法然と式子内親王
三章   慈円の歌
四章   玉日姫
五章   比叡山動く
六章   興福寺奏状
七章   流罪
八章   越後の地
九章   煩悩再び
十章   常陸の国へ
十一章  関東の地
十二章  親鸞の苦悩
十三章  再びの都
終章

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