著者:小さなヨハネ
ページ数:32
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スウェーデンボルグを読んで他では決して知ることの出来ないことを知った喜びを味わうと、それを誰かに伝えたいと願うようになります。主を見出したサマリアの女がそれを知らせに水がめを置いたまま村へ走って(?)行ったように(ヨハネ4・28)。しかし、宗教の話と政治の話はタブーと言われますが、うっかり興味のない人に死後の話や神の話をすると途端に敬遠されます。中には怒り出す人もいるでしょう。
クリスチャンはもちろん、クリスチャンでなくともキリスト教に興味を抱いている人にさえ、主は父なる神御本人だったのですなどと言ったら、異端であると猛反発されるでしょう。聖書の内意の話も恐らく受け入れられないと思います。
私自身、スウェーデンボルグを知る前にそういう話をされてもおよそ聞く耳は持たなかったでしょう。
私たちは皆生来自然的、感覚的な人間であって、悔改めて再生しない限り霊的な人間になれません。私たちが自然的、感覚的段階では外見はどうあれ、内面は粗野で欲と誤謬の塊です。スウェーデンボルグは次のように人間自身のものは悪以外の何物でもないと述べています。
天界の秘義633
「人間各々のもとでは、天使各々のもとでは、実に最も天的な者のもとにおいてさえも、その者自身のものは誤謬と悪以外の何物でもないのである、なぜなら諸天界もまた主の前には純潔ではなく(ヨブ記15・15)、凡ての善と凡ての真理は主のみから発していることが知られているからである。しかし人間または天使が完全なものになされることが出来るに比例して、彼は主の神的慈悲の下に完全にされ、謂わば真理の理解と善の意志とを受けるが、しかし彼がそれらを持っていることは単に外観に過ぎないのである。」
天界の秘義2196[6]
「人間は彼が主により悪から遠ざけられて、善の中に維持されるとき、彼のもとには善で正しいもの以外には、否、聖いもの以外には何ものもないと外観から考えはするが、(真理は)それに反して人間の中には悪い、不正な、汚れたもの以外には何ものも存在していないのである。」
天界の秘義1864
「人間はそれ自身では悪以外には何ごとも考えないし、また行ないもしないところの、卑賤な汚れたもの以外の何ものであろうか。」
身も蓋もない性悪説の指摘ですが、自分自身を反省すると全く反論の余地はありません。「人が心に思うことは、幼い時から悪い」(創世記8・21)のです。
そして私たちは悔改めて再生しない限り霊的・内的なものを知ろうとも、理解したいとも思いません。スウェーデンボルグは次のように述べています。
天界の秘義9399[3]
「悪い者らは善いことを理解はするものの、その意志とその中の悪とは抵抗するため、理解しようとは欲しない」。
神の摂理96
「理解しようと欲しない者は、自分は理解出来ないと言う」。
やる気がないから出来ないのだとよく言われます。まさにそのことです。では、スウェーデンボルグの性悪説は救いようのないものでしょうか? いいえ、そんなことはありません。
天界と地獄455
「人間は欲しさえするなら、真理を理解して、合理的なものになることが出来る」
からです。スウェーデンボルグは確かに性悪説ですが、しかし善くなりたいと本人が願えば善くなれるという自主性、選択性を認めているのです。求めれば与えられると主は仰っています。
マタイ7・7
「求めなさい。そうすれば、与えられる。探しなさい。そうすれば、見つかる。門をたたきなさい。そうすれば、開かれる。」
ですから、スウェーデンボルグは固定的な性悪説や運命論ではなく、自己責任論です。人間は求めることが可能であり、求めたかどうかその行いによって審かれるのです。私たちには自主性と合理性という二つの能力が神から与えられており、それを使わねばならないことがタラントンを地面に隠していた僕が主人から叱られた譬えにあります(マタイ25・14-30、神の摂理210[7])。
ところで、私たちが見ようとも知ろうともしないことについて主はこう仰っています。
ヨハネ14・17
「この方は、真理の霊である。世は、この霊を見ようとも知ろうともしないので、受け入れることができない。しかし、あなたがたはこの霊を知っている。この霊があなたがたと共におり、これからも、あなたがたの内にいるからである。」
「この方」、「真理の霊」とはいわゆる「聖霊」です。聖霊は父なる神同様、主とは別の方であるかのように表現されています。しかし主御自身に他なりません。唯一の神・主によって霊的に私たちは明るくされることを言っているのです。それは次のスウェーデンボルグの説明の通りです。
神の愛と知恵149
「聖霊は主と同一であり、真理それ自身であり、人間はそこから明るくされることは、聖言の以下の記事から明白である。
イエスは言われた、真理の御霊が来るとき、かれはあなたたちを凡ての真理に導き入れるであろう、かれは自分自身から語るのではなく、凡て聞いたところを語るであろう(ヨハネ16・13)。
彼は私の栄光を現すであろう、彼は私のものを受けて、それをあなた方に示すからである(ヨハネ16・14、15)。
彼は弟子たちとともに、またその中にいるであろう(ヨハネ14・17、15・26)。
イエスは言われた、私があなた方に語った言葉は霊であり、生命である(ヨハネ6・63)。
主から発する真理そのものが聖霊と呼ばれることは、これらの記事から明白であり、それは光の中に在るため、明るくするのである。」
つまり、主のその働きを擬人法で「聖霊」と呼んでいると理解してよいと思われます。理科が苦手な私の記憶ですが、磁石が近づいたらコイルに電流が流れるようなものです。あるいは燃える火の玊である太陽からこの世の熱と光が発しているように、万物の創造主である主は慈悲の塊であり、愛と知恵、善と真理はすべて主から発しています。主が近づいたら当然私たちは霊的な理解を得るのです。
もちろんそれは私たちに主を受け入れる気持ちがあるならです。夜行性の動物、鳥、昆虫が太陽を嫌うように、私たちも主を嫌うなら光を避けて暗闇に隠れるでしょう。ヨハネが次のように言う通りです。
ヨハネ3・19-21
「光が世に来たのに、人々はその行いが悪いので、光よりも闇の方を好んだ。それが、もう裁きになっている。悪を行う者は皆、光を憎み、その行いが明るみに出されるのを恐れて、光の方に来ないからである。しかし、真理を行う者は光の方に来る。その行いが神に導かれてなされたということが、明らかになるために。」
そして私たちは理解しようと欲しなければ理解できないと言うのです。
ヨハネ1・5
「光は暗闇の中で輝いている。暗闇は光を理解しなかった。」
今回これらに関し充分ではありませんが、聖書やスウェーデンボルグの言葉を中心にご紹介します。ご参照いただければ幸いです。
目次
まえがき
1.聖書より
2.彼らは霊的なという言葉を殆ど進んで聞こうとは欲しない程にもそのことについては知ろうとはしない
3.永遠の生命に属しているものについては何ごとも知ろうとは願わないし、そうした生命について聞くことさえも嫌忌を抱く
4.彼らは知恵の宮殿の最初の入口にも近づくことは出来ない、ましてその中へ入ってその楽園の中を歩き回ることは出来ない
5.スウェーデンボルグが「インド、日本、アフリカから来たのか」と聞いた霊は知ろうとしなかった
6.信仰のみによる教義を生活をもって確認した者は主に対する愛とは何であるかを知らず、隣人に対する仁慈とは何であるかも知らず、また知ろうとも欲しない
7.ユダヤ民族は教会の内なる事柄については何ごとも知ろうとは欲しなかった
8.聖言の内的なものについてはいかようなことも聞こうとしない霊
9.心で主を承認しないし、心で隣人を愛さない者は聖言の内意を否定しないわけにはいかない
10.聖言の内意は僅かな者にしか把握されはしないことについて
11.内意が在ることを聞こうとさえもしない、単に口に言われることをさえも嫌忌する
12.偽善者は何一つ信じてはいないで、依然、聖言の文字の意義を尊重する・・・パウロ
13.人間は欲しさえするなら、真理を理解して、合理的なものになることが出来る
14.人々は全能の主に対する畏敬を知ろうとしないし、怠っているのです・・・聖母(アグレダのマリア/神の都市)
15.良心を持たない者は自分の行うことは不正であり、悪であることを知りつつも、教えられるにしても、知ろうとはしない
16.悪い者らは善いことを理解はするものの、その意志とその中の悪とは抵抗するため、理解しようとは欲しない
17.理解しようと欲しない者は、自分は理解出来ないと言う
18.人間は悪から遠ざからない限り、主から霊的な善を供えられることは出来ない
19.誤謬を確認した者らは、霊的な物を何ら把握しようとも欲しない
20.悪から発した誤謬の中にいるに応じて遂には真理については何事をも聞こうとも欲しなくなりさえする
あとがき
シリーズ一覧
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