著者:中井 一夫
ページ数:247

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自分は望まれて、この世に生まれたのではなかった――。
不幸な少女は、心の病んだまま、麗しい大人になった。
六歳のときに別れた母を捜しに、古里の美しい海辺の町を訪ねた。
そして十四年ぶりに見るから零落し変わり果てた母と再会――
殺人容疑で警察に追われ岬の海に身投げした父親にあたる男、
その自殺にまつわる予想だにしない真相を知らされる。
「謎の半監禁生活とネグレクト疑惑」「身代わり同然に死んだ愛猫」「騙された初恋」
「バイセクシュアルの女友達」「東北で失踪した母親捜しの旅」……

幼くして母と別れ、父親のこともよく知らない、愛する猫は死んだ――。
幼少時から孤立感一色の境遇にめげずに生きてきた、ある悲運の少女の波瀾万丈の日々をえがいた。

【あとがきより】〈数行略〉この小説がまったくの虚構、すなわちフィクションなのか、という話にもなってきますが、このことについては、「女主人公である百合香と同じ境遇ではないが、拡大解釈すると、同じような境遇と思われる知人がいた」といった言及にとどめておきます。
(「事実は小説よりも奇なり」とはよく言ったものですが、その奇なる事実をいかに小説化するか――。)

【本文より】(母と一緒に断崖の岬へ、そして児童養護施設への出立)
 百合香は六歳のとき、幼心にわけのわからないまま児童養護施設に引きとられたが、住み慣れた部屋を離れる数日前、母に連れられて、海岸線を走るバスに揺られ、市の美しい入り江を形づくる湾の北側に突き出した断崖の岬を訪ねた。それは百合香にしてみれば初めての遠出、同じ市内のそのような岬めぐりですら、近くで海を見たことのない少女にとって、心躍る体験にほかならなかった。
《数十行略》
 ――好きでもない男に関係をしいられた母が、やがて子供を身籠もり、生まれたのが自分という女だった、という出生にまつわる深い真相を百合香が知ったのは、それから十五年も後の二十一歳のときであるが、まだ六歳の百合香は母の話をほとんど理解できないのか、
「海がきれいだね。何か棲んでいるの?」とあどけない素顔で、聞き返したくらいだった。
「お前の心は海のようにきれいだ。悲しいながら、私の心は汚れきっている。いまこうして知らされた。とはいえ、過ぎ去った日々はけっして戻ってこないし、いまさらやり直しもできないだろうか。それにしても、お前のやさしく澄んだ心は、誰の血筋なんだろう。不思議な子だ」
「母さんのそばを離れるの、寂しい」
「身勝手な言い方だけど、そうしたほうがお前は幸せになれる。私のそばにいたら、きっとだめな人間になっていくよ」
「でも、寂しいの。悲しいの……」
 母は虚ろな目で、髪をなびかせるのにまかせ、語気をつよめるように、
「二人でこの海に飛びこんで、死んでしまったほうが、幸せかもしれない……」
「飛びこむ? 冷たいの? 寒いの? 苦しいことは嫌だよ」
 娘を見やる母の目にたちまち涙があふれ、胸のあたりを濡らし、褐色の土にこぼれた。
「お前は、母さんのぶんまで、幸せになっておくれ。母さんは疲れたよ」
 あの閉ざされた部屋での生活ですら、百合香にとっては慣らされた日常であり、身勝手どころか、冷酷で浅はかな母を許し、ささやかな幸せを見いだしていた。何も知らなければ、知らないなりに、人はつよく生きていくものであるという証を、百合香の人生はほんの幼くして体現しているかのようだ。
 二人は、風そよぐ切り立った岩場で肩を並べて海を見ていた。
 いつしか太陽は背後の小さな山々に近づいて、なだらかな稜線を赤々と照らし、揺らめく海に美しい陰影をつくっていた。早春の海風は夕方ともなると、ことさら冷たく身にしみて、海の向こうやあたりの松林で鳴りやまぬ音を立てていた。

 そしていよいよ出発のときを迎えた――。
 百合香は知らない施設への出立の荷物といっても、普段身につけているパジャマや下着類と一着の外出着しかないような暮らしであっただけに、母からもらった小物入れとしての黄色いポーチと大きめの紙の手提げ袋で十分足りた。「私はこの町にいつまでもいるとはかぎらないから、何かあったときは、親戚の叔父あてに連絡をしてほしい」と、母は一枚のメモ用紙を差しだした。男の名前と連絡先となる電話番号が書かれていた。百合香はその紙切れを大切そうに黄色いポーチに入れた。
 児童施設に向かう銀色の送迎車の車窓から、立ちつくす母の姿をいつまでも見ていた。
 母が手を振っている。涙があふれてとまらなかった。
 母の姿がだんだん小さくなっていく。木々の梢の向こうに見え隠れしている。
 またたくまに視界から消えた。
 六歳になったばかりの百合香にとって、未知の世界への訪問とでもいうべき、まさに旅立ちの日であるというのに、その未来ははるか遠くまで悲しみの色にそまっていた。

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