著者:小さなヨハネ
ページ数:43
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私たちが救われるためには唯一の神なる主(イエス・キリスト)を信じ、主の戒めを行わねばなりません。
マタイ7・21
「わたしに向って、『主よ、主よ』と言う者が皆、天の国に入るわけではない。わたしの天の父の御心を行う者だけが入るのである。」
主は悔改めよとも言われます。
ルカ13・3、5
「言っておくが、あなたがたも悔い改めなければ、皆同じように滅びる。」
悔改めと行うこととは実質同義です。なぜなら私たちが行うためには悔改めを伴うからです。両者は表裏一体、不可分離の関係にあります。
もちろんキリスト教以外の宗教でも救われます。その宗教の神(人間の姿をした神仏、かつ唯一の方でなければなりません)を信じ、その戒めに従って悪を罪として避け、善良な暮らしをすれば救われます(新しいエルサレムの教義244他)。
なぜなら神は唯一であり、宗教が違い、呼び名が違っていても神は同じだからです。それについてペトロも次のように言っています。
使徒言行録10・34-35
「そこで、ペトロは口を開きこう言った。『神は人を分け隔てなさらないことが、よく分かりました。どんな国の人でも、神を畏れて正しいことを行う人は、神に受け入れられるのです』」。
一方、行いを否定し、信じるだけで救われると主張する信仰義認説があります。それは常識のある人なら誰でもおかしいと感ずるでしょう。しかし、信仰義認説を主張する人に面と向かってそれはおかしいとはなかなか言えないものです。その結果、自ずとキリスト教は敬して遠ざける対象となります。
今回信仰義認説を明確に否定するスウェーデンボルグの言葉をご紹介します。信仰義認説がいかに誤りであるかご理解、ご納得されるでしょう。ご一読いただければ幸いです。
なお、パウロの言葉(ローマ3・28)が信仰義認の根拠としてよく引用されます。しかしスウェーデンボルグはそれは誤解であると述べています(真の基督教506[4])。それについてはまたの機会にご紹介したいと思います。
目次
まえがき
1.聖書より・・・私たちは自分の行い、罪によって裁かれる
2.『キリストに倣いて』より
3.いささかも信仰ではなく、単なる迷妄に過ぎぬこの信仰による義認の教義が、凡ゆる基督教会に流布され、教職者達はこれを最高の教説として認めているとは、驚くべきこと
4.こうした考えは、使徒たちの書簡によって明白であるように、如何なる使徒たちの心にも決して入らなかった。この信仰と仁慈との分離は基督教会が神を三人格に分割し、各人格に平等の神性を帰した時、彼らの中に導き入れられた
5.ペテロに対する御言葉から、信仰のみの教義の中にいる者らは主の神的な人間的なものを承認しないが、仁慈の善の中にいる者のみがそのことを承認することが明らか
6.仁慈の中にいる者のみが、即ち、仁慈の生命に達した者のみが救われる
7.思考は何人も救うことはできず、ただ人間が信仰の知識によって世で自分自身に取得した生命のみが人間を救う
8.全般的には、ただ一つの教義、即ち、仁慈の教理しかない
9.自分らは如何ような生活をしていても、単にこれらの教義的なものを信じさえしているなら、信仰のみで救われることが出来ると言うほどにもなった。このようにして仁慈は信仰から分離した
10.信仰のみといったものは在りえない、なぜなら仁慈は信仰の霊魂であり、仁慈から分離した信仰は信仰ではなく、それゆえ信仰のみを話すことは霊魂を持たないものを話すこと
11.聖言に『義しい』と呼ばれている者たちはこうした者ではなくて、主から隣人に対する仁慈の善の中にいる者たち
12.義認を信じる者は再生については殆ど何ごとも知っていない
13.義とする信仰のみは教職者らの信仰であって、一般信徒のものではない
14.自分自身のために誤った原理を吸引した者であって、または形作った者であって、たれがその原理をその者が学んだ多くの物により、実に聖言によってさえも確認しないであろうか
15.自分は何一つ善は行ってはいないのに、真のことを知ってさえおれば救われるということ以上に悦ばしいことがあろうか
16.隣人愛を自分の富を剥ぎ取られることと考えることから仁慈の教義を斥けて信仰の教義をかき抱く
17.もしこれらの人々が隣人に対する仁慈の何であるかを知ったなら、彼らは決してこうした教義の誤謬に陥りはしなかったであろう。仁慈の根本的なものとは自己の義務または職業に属している凡ゆる事柄において正しくまた公正に行動すること
18.いかような者であっても人間は凡て主の善意により救われることが出来ると考え、実に地獄にいる凡ての者でさえも救われることが出来ると考えている者は人間について何ごとも知らない
19.天界の生命は誰であれ悪から遠ざからない者の中には植えつけられることは出来ない
20.神的諸真理は秩序の法則であって、その法則に従って主は人間を導かれ、直接的な慈悲から人間を救うことは神的秩序に反する
21.もし人間が直接的な慈悲によって救われることが出来るなら、凡ての者は地獄にいる者さえも救われ、実に地獄は存在しないであろう
22.基督教世界から他生に入ってくる者たちの大半は、自分たちは直接的な慈悲により救われることが出来るという信念を抱いてくる。彼らは天界の最初の入り口に立つと、天使たちの浴している愛である天界の熱が近づいてき、また神的真理である天界の光が流れ込んできて、不意に非常な心の苦悶に襲われ、自分自身の中に天界の喜びどころか、奈落の苦悶を覚え、狼狽の挙句に我と我が身を真逆様に下に投げつけた
23.慈悲のみから天界に入ることは信仰を救の唯一の手段としている者により特に信じられている
24.信仰のみによる義認の教義のため百人の中五人も主の中の父と子の合一を真理として認めていない。この教義に名誉と富との為に学問上の名声を得ようと熱中している者達が自らを非常な熱意を以て捧げ、遂にその心はその教義に取りつかれる
25.そうした信仰は決して人間を救いはしない、それは現実には信仰ではない、なぜなら生命〔生活〕が彼らはいかような種類の信仰を持っているかを示すからであり、そうした信仰は単なる記憶の事柄であって、何一つ生み出しはしないに反し、信仰の生命は主から発している愛
26.信仰のみが救い、人間の仁慈は単に道徳的であり民事的なものに過ぎないと教えられる所に如何なる宗教が在り得よう。信仰のみは純粋に理論的なものであり、宗教は本質的には実践的なもの。善き業である仁慈の諸々の善は救いに必要であることを認めない国民が世界にあろうか
27.悪の中にいる者らは仁慈とその業とが救いに寄与することを決して承認しない。彼らは信仰を教え、信仰により義とし、またそれによって天界を約束している。これらの者が聖言から発している仁慈の教義に対抗する者ら
28.彼らは凡ゆるものの中で最も本質的なものを、即ち、仁慈を除外している。彼らは実に仁慈の業は信仰の果実であると言いはするが、それでもこうした業を無価値なものとして、人間はその生活はいかようなものであったにしても信仰のみにより、生命の最後の瞬間においてさえも救われる、かくて信仰によりその業が無くても、従って信仰と仁慈との生活が無くても救われると聴衆に説きつける
29.宗教の本質的なものと普遍的なものである二つの物、即ち、神に対する信仰と悔改めがある。それは二つとも、人間はどのような生活をしようとも、慈悲のみにより救われると信じる者には無意味である。なぜならそこには『嗚呼、神よ、私を憐みたまえ』と言う以外に何を為す必要があろうか。他の凡ての宗教的な事柄について彼らは暗闇におり、暗闇を愛している。瞬間的な救いを信じる信念により宗教が廃棄される
30.現今の全キリスト教の神学は三神の観念の上に築かれていることは教会の教義の主要なものとなっている義認の教義から明白
31.人間は聖言から信仰に属した諸真理と諸善とを探求しようとは殆ど願っていない。信仰のみを告白して信仰の生活を顧みない教会の人間はエジプト人により表象されている
32.人間は真理を実践しなくても、即ち、真理に従って生きなくても信仰のみで救われることが出来ると言うほどにも甚だしい盲目が多数の者を捕らえている
33.言うも驚くべきことには、彼らはそうしたことを教えてはいるものの、それでも(凡ての者に共通して天界から与えられている認識の結果)、善い生活を送る者たちは救われるが、悪い生活を送る者らは地獄に落ちることを承認している
34.改革派の人々は実際の悔改めには根強い反感を持っている。それ故、彼らはその罪を点検し、これを神に告白するように自分自身を強制することが出来ない。彼らはこのような悔改めのない心の状態を生んだものは信仰のみの教義であることを知り、かくてキリストを崇拝して、聖徒達に祈願を捧げないロマ・カトリック教徒は救われることを納得した
35.信仰のみによって義とすらされることを、教義においても、生活においても確認した者らは、遂にはその者らの愛の欲念に相応した社会の中へ入ってくる
36.彼らは聖言の真理を彼ら自身の誤った原理に適合させ、かくして真理を汚辱することによって、深淵の使い、即ち、アバドンおよびアポリオン(黙示録9・11)となり、聖言を全面的に虚偽化することによって教会を破壊する
あとがき
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