著者:ハンデウン
ページ数:112

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序言 〝韓(から)隠し〟が魑魅魍魎の古代史を現出している
 上垣外憲一氏は自著の『倭人と韓人~記紀からよむ古代交流史』で、「日本の古代史を朝鮮半島との関係の中で考えなおそうとする試みである」とし、「朝鮮半島の古代史を知れば知るほど、日本の古代史に対する新しい視覚が大きくひらけてくるのである」「日本人という民族の形成の問題を考察するにあたって、どうしても欠くことのできない朝鮮半島からの人の渡来のありさまは、いまだに謎に満ちている」と言っているのじゃ。
 『小説日本書紀』シリーズでは、常々、日本の伝統的思考とも思われる〝韓(から)隠し〟のよって、魑魅魍魎の古代史を現出している現況を指摘しているのじゃが、日本の古代史を韓地との関係で再検討しようとの姿勢は、日本の古代史解明に一歩も二歩も近づくものと確信するのじゃ。
 日本の歴史学者が、真実に目を背けて、どうして〝韓(から)隠し〟するのかに関して、日本人は自らを天孫族の後裔と称し、その尊厳性を高めてきたのじゃが、胸を張って誇るべきはずの出自の地、すなわち百済や高句麗が、新羅に敗北し、負け犬の地となってしまったため、あこがれの地であり、出自の地でもある韓(から)を、思いきって格下げし、天孫族の尊厳性を相対的に高める必要があったのだろうといい、『記・紀』にあふれている〝韓(から)隠し〟の記事は、一つ一つにそのような感情が深く秘められているというのじゃ。
 その慧眼に敬服するのみじゃが、分かりやすくいえば、韓地が新羅主体勢力となり、倭地が百済主体勢力の地ということになって、新羅憎しの感情が、倭地の百済勢力の間で増幅されたということじゃろ。それが尾を引いて、現在の日本でも、朝鮮憎し、韓国憎しという感情を内在しているのだろうといえるのじゃ。
 とまれ、この『小説日本書紀25景行①~景行はイリ王朝を簒奪したタラシ王朝』では、どのような実態が浮かびあがってくるのかのお。
 なお、底本は、宇治谷猛現代訳『日本書紀』じゃ。〔追〕尊称の尊・命・神などは引用文などやむを得ない場合を除いては省略し、また、媛や皇女の字もすべて姫で表記しているのでご了承願いたい。  2019年9月 ハンデウン

小説日本書紀25 景行① 景行はイリ王朝を簒奪したタラシ王朝 目次
序言 〝韓(から)隠し〟が魑魅魍魎の古代史を現出している
〈景行紀〉 大略
景行は狭穂姫の子の本牟智和気の別の姿
景行の諡号の忍代別は〝忍王に代わった〟ことを示唆
景行擁立は物部大連十千根の工作
婚姻説話が多いほど新しい権力構造の創始を示唆
新羅系渡来人の田道間守を新羅(常世国)に派遣
景行は彦太忍信の子の屋主忍男武雄心とは異母兄弟
彦太忍信こそが五十(忍)王家の信(まこと)の後嗣
景行簒奪王朝の主体勢力は伊香色雄王家
『日本書紀』が語らない建豊波豆羅和気
建豊波豆羅和気一族も景行擁立の主体勢力
景行を日葉酢姫の第2子とする伝承は虚構
ホアカリ(火明)の子孫の乎縫や小登与の名は小碓や大碓に近似
『古事記』と『日本書紀』との系譜伝承が違う
7男6女を生んだ八坂入姫と他の妃たち
小碓は兄の大碓の手足を折り投げすてた
各地の王となった景行の子たち
諸国に別(王)をおいた藩屏は沸流百済の檐魯制
淡路はもとタンロと発音されたが改名してアワジに
足(タラシ)は垂に通じ夫余系種族の尊称
葛城・紀伊・南山城勢力に擁立された景行
景行王朝を正当化するために崇神の孫娘の八坂入姫を娶った
鼻垂・耳垂・麻剥・土折猪折の4賊を掃討
女頭領の速津姫が景行軍を歓迎
九州縦断という景行の超人的な熊襲征討
白馬は〝あおうま〟と訓み韓語アヲルが語源
景行の熊襲征討は実際にはあり得ない不思議譚
多臣の祖に神八井耳や武諸木
土蜘蛛は夫余系渡来人集団の日置氏族
神武や景行が創作なら確かな回答は得られない
空から燃える火が降ったので火国と名づけた
景行は日向で没したからその後の東国巡行は虚構譚
景行の日向での死を隠くすためヤマトタケルの武勇譚を特筆
国つ神も天つ神も共に渡来神
景行時代の蝦夷の記事は信用できない
百済系木氏集団が武内宿禰に繋がる
景行纂奪王朝にとって越・近江の諸勢力は潜在的な敵対勢力
播磨の軍事力を美濃に配して北陸・東国への抑えとした
クーデターの危惧があり非常に備えた
景行の征西東伐譚が国土統一譚に作り変えられた
高穴穂宮遷都は景行王朝の再編成が狙い
彦狭嶋の屍を盗んで上野国に葬った
結語 日本列島は外来文化によって成り立っている

景行は狭穂姫の子の本牟智和気の別の姿
 景行は、垂仁37年に21歳で太子となっているのじゃが、治世60年の景行は106歳で薨じているから、逆算すれば46歳で皇位に就いたことになり、垂仁の治世99年から46年を差し引けば53年となるから、景行は垂仁53年に生まれたという勘定になるのじゃ。その53年に21歳を足せば、垂仁73年に太子となった計算になるのじゃ。
 このように、『日本書紀』が記す年次は現代の通念で理解できる次元のものではないというのじゃ。ということになれば、垂仁37年、21歳で太子になったことや垂仁30年条の大足彦(景行)に皇位を告げといった詔などはあり得ないこととなり、垂仁32年の日葉酢姫薨去の記事から、景行は日葉酢姫が生んだ子でないということが明白となるのじゃ。
 という結果から、景行ことオホタラシヒコオシロワケは、沙本毘売(狭穂姫)の子の本牟智和気の別の姿であろうというのじゃ。これは、垂仁に公然と大和王権の移譲を要求した春日系タラシヒコ勢力の動きを語り伝えたものであろうというのじゃ。すなわち、五十瓊殖は、垂仁王家の嫡子として後継者になったのじゃが、大和王権は春日系の首長である忍代別(景行)に簒奪されたということじゃ。
 磯城古墳群に由縁があり、イリ王家と称される崇神・垂仁の大和王朝は、4世紀前半で終わりを告げたと見られているのじゃ。それに代わって、タラシ王家と称される景行・成務の王朝が春日・添地域に台頭し、佐紀盾列古墳群を残したと見られているのじゃ。それら両王朝を五十=忍=押の王朝と称してもいいだろうというのじゃ。その五十=忍=押王朝は、南韓全羅道の押海(アプヘ=アベ)の海人を中心とする馬韓・弁韓系の渡来人部族と考えられるというのじゃ。

結語 日本列島は外来文化によって成り立っている
 『記・紀』が神話的表現法を脱して、歴史記述に近い体裁をとりはじめるのは、4世紀代であるとされるのじゃが、韓地との関係が、日本の立場を歴史の中で強化していこうとの作為が強すぎて、歪曲されているというのじゃ。いわゆる〝韓(から)隠し〟というものじゃ。その意味から韓地の史書である『三国史記』や『三国遺事』を詳細に検証すれば、韓地と倭地との関係は、かなりの程度まで復元できると言われているのじゃ。
 室町時代の永享2年(1430)に書かれた『熊野三巻書』という本があるそうで、これによると、熊野権現は摩竭陀(まがだ)国から日本へ飛来したことになっているのじゃが、修験道信仰らしい話の作りになっているというのじゃ。中国の天台山(浙江省天台県)から飛来したとする説もあるのじゃが、要するに海の彼方から日本へ渡ってきたとする観念が基層にあることを洞察できるというのじゃ。そして、熊野権現は、初め鎮西の英彦山に天降り、次に四国の石鎚山に飛び、次に淡路の遊鶴羽(ゆずりは)山に飛び、次に紀伊の無漏切目(むろのきりめ)に飛び、最後に熊野神倉山に降臨した、ということになっているそうじゃ。
 この観念の基層には、日本列島は、外来の文化によって成り立っているということを傍証するものじゃ。しかし、日本の史学界は、その基層を否定して、日本列島自生による歴史を主張するものじゃから、基底に部分で魑魅魍魎となってしまうのじゃ。換言すれば、基底にある外来文化が、いつの間にか幽霊のような存在になって、倭地に自生しているかのような錯覚をおこさせ、その幽霊のような存在を前提として、歴史や文化を考証するものだから、わけのわからない砂上の楼閣の論述となってしまうのじゃ。
 その意味から、『記・紀』を韓語で読む解く方法で歴史を探求する史学者らは、新しい説得力のある説を多々発表しているのじゃ。換言すれば、もともと日本語というものは存在せず、韓地から渡来した人たちが使用していた言語、すなわち韓語が日本語のもととなった言語だということじゃ。
 にもかかわらず、平安時代以降に、韓語が訛って、韓語とは多少発音が違ってくる言語、すなわち日本語が誕生し、その日本語がもともとあったがごとくに日本語扱いして、『記・紀』や『万葉集』を読み解いたとするのが、日本の古代史研究なのじゃ。これじゃ、いくら研究しても、残念ながら、真実の歴史は見えてこないじゃろ。
 今回の『小説日本書紀25景行①~景行はイリ王朝を簒奪したタラシ王朝』では、物部氏や武内宿禰の葛城や紀伊勢力に擁立された景行は、内訌の末、丹波や若狭勢力を背景とする垂仁王朝にとって代わった簒奪王朝であることを明らかにしたのじゃ。  2019年9月 ハンデウン

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