著者:ハンデウン
ページ数:62

¥430¥0

日本書紀は史書ではなく小説だ
韓かくしを指弾する新解釈の書
小説日本書紀34反正 反正は2mを超す偉丈夫の和珥氏系大王だった
序言  反正朝は応神朝に戻った状態
 大王(天皇)の反正はハンゼイと訓まれているのじゃが、普通名詞の反正とは、辞書を引けば、ハンセイと読み、「以前の正しい状態にかえすこと」とあるのじゃ。
 反正という普通名詞が使用されている例として、朝鮮朝時代の中宗反正、仁祖反正などがあり、中宗反正は1506年の出来事で、燕山君を廃位、追放して、18歳の晋城大君を擁立したクーデターのことじゃ。仁祖反正は1623年、クーデターによって光海君を廃位し、仁祖を擁立して即位させた事件のことじゃ。ともに、旧にもどして正しくすると標榜したのじゃ。
 前著『小説日本書紀33履中 履中を支えた安曇・海部氏族が和珥氏族に敗北』で明らかにしたように、去来穂別(履中)に対する住吉仲の反乱は、そうではなく、住吉仲と瑞歯別(反正)との後継者争いであったのじゃ。それは安曇・海部氏族と和珥氏族との覇権闘争でもあり、結局は和珥氏族が勝利する形になり、応神朝の状態に戻したということを示唆しているのじゃ。
 菟道稚郎子は、大鷦鷯と大王位を譲りあっている間は大王であったという見方もあり、菟道稚郎子の妹である八田姫が瑞歯別の母であったから、菟道稚郎子の流れに返ったということを意味すると考えられるのじゃ。菟道稚郎子は応神の太子であり、仁徳に敗北したのじゃが、瑞歯別こと反正は、菟道稚郎子の時代に戻ったということになり、それが反正という漢風諡号になったと考えられるのじゃ。
 『小説日本書紀30応神 応神は沸流百済に牛耳られた和珥氏族』と『小説日本書紀31応神② 応神=王仁(おうじん)が王仁=和珥(わに)と読まれるカラクリ』で明らかにしたように、応神朝は沸流百済と和珥氏族による合体王朝であったのじゃが、仁徳(沸流百済)の勢いに押されて、菟道稚郎子(和珥氏族)が沈没してしまったのじゃ。
 淡海三船が、そのことを知っていて反正という諡号を与えたかどうかは定かでないのじゃが、仁徳朝に沈没した和珥氏族が、瑞歯別(反正)を擁して元の状態に戻したこと、平たく言えば返り咲いたことを意味していると思われるのじゃ。
 敷衍すれば、和珥氏族は新羅系山陰王朝の象徴であり、沸流百済によって樹立された百済系大和王朝を抑え込んで、原初からの倭地の住民である新羅=伽耶系の正しい王朝に戻したということを意味しているとも考えられるのじゃ。
 とまれ、その反正朝の記述は極めて短いもので、事績は皆無に等しいのじゃ。『記・紀』編著者らによるそのような冷遇はどこから生じたのかのお。今回の『小説日本書紀34反正 反正は2mを超す偉丈夫の和珥氏系大王だった』では、そうした問題意識のもとに、反正の実像に迫ってみたいのじゃ。
 なお、底本は、宇治谷猛現代訳『日本書紀』じゃ。漢数字は引用文を除いてアラビア数字にしたので了承願いたいのじゃ。〔追〕尊称の尊・命・神などは引用文などやむを得ない場合を除いては省略し、また、媛や皇女の字もすべて姫と表記しているので了承願いたいのじゃ。  2020年4月 ハンデウン
目次
序言 反正朝は応神朝に戻った状態
〈反正紀〉 大略
『古事記〈反正記〉』 大略
瑞歯別(反正)は磐之姫ではなく八田姫の子
反正は2mを超す偉丈夫だった
『古事記』は蝮之水歯別と記す
淡路(たんぢ)は淡路(あわじ)島でなく河内丹比の地
色鳴宿禰はホアカリ=ニギハヤヒの子孫
丹比道(竹内街道)はマムシが頻繁に出没する道だった
住吉仲の反撃を乗り切って反正朝が誕生
丹比柴籬宮は難波と大和との中間に位置する枢要の地
反正の記録は失われても名君だったという記憶が残った
遠飛鳥・近飛鳥という地名は反正朝に生まれた
遠飛鳥・近飛鳥の地は一定していなかった
物部氏族と丹後海部氏族の婚姻を示唆
蝮部=丹比部(たじひべ)は但馬国の城崎や香住が原郷
反正朝に武内宿禰の子孫が江沼国造に定められた
北陸道に蟠踞した武内宿禰の子孫
船山古墳の遺物は百済・伽耶の色彩が強い
船山古墳の鉄刀銘解釈が反正から雄略に豹変
反正はそれなりの治績もある大王だった
反正は新羅系山陰王朝の和珥氏系の王族
葛城氏は大和朝廷に従順ではなかった
和珥氏は大王家の外戚氏族として勢力を誇った
磐之姫は韓人奴理能美の娘
反正ゆかりの神社
難波神社 御幸森天神宮 猪名津彦神社 椎葉円比咩神社 千田八幡宮 焼津神社 船形山神社
結語 反正は淡路島ではなく河内の淡路=丹比で生まれた
瑞歯別(反正)は磐之姫ではなく八田姫の子
 反正の母は、葛城襲津彦の娘の磐之姫とされているのじゃが、実際は2番目の正妃である八田(矢田)姫と見られているのじゃ。八田姫は、菟道稚郎子の妹じゃ。
 応神の崩御後、太子であった菟道稚郎子が即位したのじゃが、仁徳は、その菟道稚郎子を殺害して大王位を纂奪し、その大王位を正当化するために菟道稚郎子の同母妹である矢田姫を正妃にしたと見られているのじゃ。
 仁徳が即位したとき、磐之姫が正妃になる余地はほとんどなかったという見方もあるのじゃが、前著『小説日本書紀32仁徳 仁徳は倭地の勢力を制した沸流百済の王』で明らかにしたように、仁徳は、葛城氏族の全面支援を受けて、菟道稚郎子を擁立していた和珥氏族を排除して即位したと考えられるから、葛城氏族の磐之姫を正妃にしなければならない状況にあったと思われるのじゃ。それゆえ、磐之姫が没したのちに、八田姫を正妃にしたとしてもおかしくはないのじゃ。
 仁徳と磐之姫との間には、大兄去来別(履中)、住吉仲(墨江中王)、瑞歯別(反正)、雄朝津間稚子宿禰(允恭)の順序で4人の子が記されているのじゃ。大兄は長子、稚子は末子のことであるから、大兄去来別と雄朝津間稚子宿禰の命名は問題がないと見られているのじゃが、住吉仲の命名は3人兄弟の場合であって、4人兄弟の場合は住吉大仲とされるべきだというのじゃ。
 瑞歯別(反正)は履中の同母弟で、履中の2年に太子になったとあるのじゃが、履中の在位期間は2~3年と見られ、治世6年間の後半3年間は殯の期間と考えてもおかしくはなく、太子であった瑞歯別(反正)が治世していたと考えられるのじゃ。それを、よしとしない住吉仲が、履中の妃である黒姫を犯して大王位を掌握しようと狙ったのじゃが、失敗に終わったのじゃ。
 瑞歯別(反正)は住吉仲の近習の隼人を抱き込んで住吉仲を騙し討ちにしたとあるのじゃが、当時の隼人は大王の親衛隊であったと思われ、次期大王であるはずの瑞歯別(反正)ではなく、住吉仲が大王のように振舞うので、その隼人が反感を抱き、瑞歯別(反正)を助けるために決起したとも考えられるのじゃ。
結語 反正は淡路島ではなく河内の淡路=丹比で生まれた
 『記・紀』における反正の記事は極めて少ないことから、治績がとぼしい存在感のない大王という印象が強いのじゃ。反正に対する『記・紀』のそのような冷遇はどこから生じたのかを問題意識して、今回の『小説日本書紀34反正 反正は2mを超す偉丈夫の和珥氏系大王だった』に筆を進めてきたのじゃ。
 反正の在位期間の6年間は、雨風節にしたがいて、五穀ゆたかに穣り、万民栄えて、天下大平なりき、とあり、平和で豊かな時代であったことを示唆し、反正の実像として、2mを超す偉丈夫の和珥氏系大王であったろうことが浮かびあがってきたのじゃ。それは、『記・紀』の記述の虚偽性を暗喩するものでもあるのじゃ。
 去来穂別(履中)に対する住吉仲の反乱は、住吉仲と瑞歯別(反正)との後継者争いであり、それは安曇・海部氏族と和珥氏族との覇権闘争でもあって、結局は和珥氏族が勝利する形になり、反正朝は、応神朝の状態に戻ったことを示唆するのじゃ。
 換言すれば、反正の母は磐之姫ではなく、菟道稚郎子の妹である八田姫であり、菟道稚郎子が太子であり、大王になったであろう流れに戻ったということを意味するのじゃ。それは、仁徳・履中と続いた沸流百済主導の百済系大和王朝が、和珥氏に象徴される先行の新羅系山陰王朝に戻ったことを意味するのじゃ。
 正史である『日本書紀』は、反正(瑞歯別)が淡路島で生まれたとしているのじゃが、淡路が当初は淡路がタンロと読まれ、タンジと読まれていたことは、既著『小説日本書紀22崇神① 崇神は百済系に色付けされた傀儡王朝』で明らかにしているのじゃ。
 吉田東吾著『地名辞書〈河内国〉』にもあるように「日本紀に丹比を淡路(たんぢ)に作り」とあって、淡路は丹比のこととしているから、反正は淡路島で生まれたのではなく淡路(たんじ)=丹比(たじひ)で生まれたと見るほうが理に叶うのじゃ。『記・紀』編纂者らはそのことを知らずに、淡路をアワジと読み、淡路島で生まれたと勘違いしたように思われるのじゃ。
 反正の名代である丹比(蝮)部の原郷は但馬にあることを突き止めたのじゃが、サンカ(山窩)の生業の一つにマムシ(蝮)捕りがあり、河内の丹比地域にもマムシが多く、但馬から呼び寄せられて活躍したようだと伝承されているのじゃ。マムシ酒があるように、往古マムシは幅広く活用され、反正朝の大きな財源の一つになっていたことを暗喩するのじゃ。その丹比部は、新羅系山陰王朝の始祖であるホアカリ(火明)=ニギハヤヒ(饒速日)の後裔氏族とされるのじゃ。

シリーズ一覧

  • 同シリーズの電子書籍はありませんでした。

 

  Kindle Unlimitedは、現在30日間無料体験キャンペーンを行っています!

この期間中は料金が980円→0円となるため、この記事で紹介している電子書籍は、すべてこのKindle Unlimited無料体験で読むことが可能です。

Kindle Unlimited 無料体験に登録する