著者:アポワンティ フード&サイエンス出版部
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以下は第1部②のはじめにから一部抜粋
パンのある食卓は、文化と歴史を表す。一片のパンで人生が語れるように。
「パンがなければ、お菓子を食べるように」とマリー・アントワネットが言ったという。パリ市民の怒りを買い、フランス革命の引き金を引いたとされるこの言葉の真実を探ることは、存外難しい。マリー・アントワネットのパンとお菓子はどんなものだったのだろうか。
フランスの宮廷の料理係には伝統的な組織分けがある。その中はパンを作る係も当然配置されているが、当時のパン係は今とは少し異なる仕事を担っている。宮廷の食生活でのパンは今とは少し食事における役割が異なっていた。
<中略>
特に農業をはじめとする重労働を担う人々は、1日にパンを1kgも食べたという。パンは正に主食であり、パンが食べられないことによって、人々は大きな不安や不満を抱いた。フランス国立農業研究所のデータから18世紀の食生活を読み取ってみよう。
フランスに革命までを起こしたパンの価格高騰の背景はなんだろうか。古いフランスの記録からパンの価格支配権の仕組みから探ってみた。当時のパンの価格は小麦粉1袋あたりの出来上がり個数を厳密に定め、そこからパン1個あたりの価格が定められていた。
どんなに辛い食糧難の時期が訪れても、フランスの主食が大航海時代にもたらされた「世界を変えた七つの食物」にとって代わられることはなかった。フランス人にとって、パンがどれほど大切な食べ物であるかが見てとれる。
フランスの「パン法」では、パンの製法から粉の配合、<中略>フランスパンを守るための細かい定義付けが行われている。いつの時代においてもフランスにとってパンは特別な存在である。自由の国フランスのパンは、自由ではないのだ。<中略>
ヨーロッパから日本に上陸したパンは、当初、外交の潤滑油としての役割が大きかった。開国後に作られたパンは、外国人のための外国人によるメリケン粉を用いた高価な食パンであった。<中略>渡仏経験のある与謝野晶子のパンのある食卓は、当時の知識人の欧米文化への強い憧れを象徴している。
そう、パンのある食卓、そこには新しい食文化の発展が示されている。ところが与謝野晶子のパンのある食卓は、一筋縄ではいかない。欧米と日本、江戸と明治が混然としている。
東京の都心では新たな食文化を切り開くために、缶詰や果物等の開発が積極的に行われていた。初めての国産ジャムはイチゴジャムだった。飯田橋界隈では牧場も営まれ、日本初のバターの本格製造も行われた。パンのある食卓は、その周縁から成り立っている。
<中略>
フランスのパン、イギリスのパン、ドイツのパンなど、パンのある食卓には、パンを取り巻く人々の様々な思いがある。それらのパンはそれぞれのパンに最適な小麦、発酵法を用い、専用の窯で焼かれる。これは長いパンの歴史の中で試行錯誤を繰り返された賜物であり、科学的にも理にかなった黄金のバランスの上に成り立っている。美味しいパンを選ぶとき、新しいパンを生み出す時、パンを主食とする国の人々と交流する時・・・、これらの背景を踏まえることで、パンのある食卓は、これまでよりも、もっと豊かで素敵なものになるであろう。
以下、近日刊
第2部「パン屋を取り巻く背景」
第3部「パンとその主原料」
第4部「今日の食卓と未来のパン」
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