著者:逢路磨 香貴
ページ数:97

¥800¥0

こちらの窓側のお席で御座います」
既に女性が二人座っていて慌ててシートベルトを外して立ちかけた。
「いや、いや、申し訳ございません・・・
そのままで、もしよろしかったら窓側の席の方へお座り頂けますか?まことに恐縮ですが・・・」
清川玲治は搭乗待合中に学会仲間のカナダ人教授に捉まった。
いつまでも話が途切れず危うく乗り遅れそうになった。
スチュワーデスが待ち構えていて、バタンとカバンを棚に収納し急ぎ離れた。
玲治も急ぎ着席し、シートベルトを締めた。
ほっとする間も無く機は動き始めた。
離陸してからもカナダ人教授の質問が妙に頭の隅から離れない。
玲治は立ち上がりカバンから発表した原稿を取り出した。
所々に緑色の蛍光ペンでラインが引かれている。
真知子は急いで席を移動した。
自分がそのまま奥へ入り、娘の薫が真ん中の席になってしまった。
男性は二人には見向きもしないで書類を睨み付けている。
遠く過ぎ去った記憶の片隅にこんな情景があった。

「どうかしたの?」
「ええ?何が?」
「あら、嫌だわ、だって急に上の空になってしまって・・・」
そう、真知子はぼう~っとしていたのだった。
遠い・・・消し去った記憶の世界に入りかけていた。
「気分でも悪くなったの?大丈夫?」
「あら、大丈夫よ」
「なら、良いけど、どうしたのかしらと心配しちゃったわよ」
真知子は少し声をひそめながら
「昔ね・・・あなたが未だ、小さかった頃、旭川にいた頃のことよ」
「ええっ!どうしたの?突然に」
「あの頃は青函トンネルなんか無くてね、連絡船だったのよ」
「あら、嫌だわ・・・私だってそんなことは知っているわよ」
 二人の会話が思索にふけっている玲治の耳元にも届いて来た。
そんな時代もあったな~ぁと玲治の脳裏がゆっくりと反応し始めた。
「函館の朝の特急の中のことよ。
私が通路側に座っていたら後からこられた方がね、
もしよろしかったら窓側へお移り下さいって言われたことがあったのよ。
丁度・・・さっきのように」
「そうなの・・・」
「だから・・・そのことをふと思い出していたのよ」
「ええ~っ、あの・・・お母さんの大失恋物語を?」
「ま~ぁ、大袈裟ねえ」
「そう言えば・・・薫がいなかったらあの子も・・・って、
おばあちゃんが独り言を呟いていたのを憶えているわ、今でも・・・
あの時おばあちゃん、なんかとっても悲しそうで・・・
私を抱きかかえたままボロボロ涙流して・・・」
「そんなことを?・・・おばあちゃんが?」
「あの頃、おばあちゃんがお母さんだとばかり思っていたもの」
「そうよね・・・ゴメンね・・・本当にゴメンネ」
「お母さんのことお姉さんって呼んでいたし」

 二人の会話は掘削ドリルとなり玲治の脳の奥深くに向かって回転を始めた。
長い時の残滓物で深く埋め去った記憶の鉱脈へ掘削機の刃がぶち当たった。
書類を畳んで、洗面所へ行く振りをしてそっと席を離れた。
あまりにも奇遇過ぎる!娘さんの方はカオルちゃんと言っているし。
洗面所で何もすることも無い。
時間を見計らって再びゆっくりと席へ向かいながら母親の方を盗み見た。
確かに・・・近づくにつれて映像のピントが合って行く・・・
映画のワンシーンのように。
あの人の記憶がくっきりと・・・間違いない、そう間違いなかった。

 真知子は通路を戻って来る男性を凝視した。
うそ!うそでしょ~う!近づいて来る・・・それとなく自分を見詰めながら・・・。
二十数年前の時が、二人だけの時が甦って、ぐんぐんと迫って来る。
逃げ場のないこんな所で・・・血流が激しく脳へ駆け上り・・・
身体が硬直して来る・・・

 二十数年前の函館の朝、特急列車で隣席の女性との出会い、三日足らずの逢瀬、たった三通の速達での出来事である。
愛する人に死なれ、幼子を抱え、女であることを捨てて母に徹しようと努める真知子だった。
しかし、玲治との出会いは勝手な妄想をかきたてた。
何処かで愛に渇望していた真知子はこの出会いに喜びながらも、苦しみあえいだ。玲治はそんな彼女に同情し共に歩もうと決心する。
しかし・・・
 登校拒否中だった高校生の留美子は毎夏過ごす軽井沢で玲治に会った。
家庭教師になってもらう。
奇しくも父親の研究室に玲治が入り、付き合いは一層深まっていく。
玲治との結婚を夢見て大学受験、更に玲治に会う時間が欲しい一心で両親の反対を押し切り大学院まで進んだ。
この間に玲治への思いを綴った手紙は二百通を超えた。けれども切手も貼られず、一通も投函されない・・・

シリーズ一覧

  • 同シリーズの電子書籍はありませんでした。

 

  Kindle Unlimitedは、現在30日間無料体験キャンペーンを行っています!

この期間中は料金が980円→0円となるため、この記事で紹介している電子書籍は、すべてこのKindle Unlimited無料体験で読むことが可能です。

Kindle Unlimited 無料体験に登録する