著者:小さなヨハネ
ページ数:20

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「はじめに」から

私はもともと何の信仰もなく、無知な人間でした。無知と同時に本当に無恥でした。昔のことを思い出すたびに今でも恥ずかしく、後悔の気持ちで一杯になります。私がクリスチャンになったのは、以前、自分の傲慢卑劣さが原因で全く予期していなかった良心の呵責に襲われ、七転八倒していた時にスウェーデンボルグを読んで救われたことがきっかけです。これは私がそうなったいきさつと、現在信じている内容を簡単に御紹介したものです。

スウェーデンボルグというと、神秘家、ニューソートなどを思い浮かべる方も多いでしょう。私も読む前はオカルトだろうくらいに思っていました。しかし、読んでみると驚いたことにそれはキリスト教そのものでした。しかもキリストは唯一の神ご自身だというので私はびっくり仰天してしまいました。そんなことは考えたこともありませんでした。そもそも神がおられることさえ知りませんでした。しかし不思議なことに、読んでいるうちに心が平安になって行ったのです。私にとってそれは本当に忘れられない体験でした。

スウェーデンボルグは人間の再生を詳細に説明しています。一連の過程、即ち、自己愛の増大、誘惑、試練、痛悔、絶望、慰安等々。自分の経験したそのことが書かれており、本当にその通りだと私は心から感動しました。ですから私がスウェーデンボルグを皆様にお薦めするのは、自分の体験からお薦めしているのであって、他人の評判で申し上げているのではないのです。

スウェーデンボルグは人間は生来凡ゆる種類の悪と欲念に傾いており、可能な限り他の者を支配し、その財産を所有することを貪り求める小規模の地獄だと言います(真の基督教612)。幸か不幸か、私は自分がそうであることを嫌というほど味わったので、それをそのまま素直に肯定出来ました。その結果私は主を知り、信じるようになりました。

ですからスウェーデンボルグはキリスト教の異端だという批判がよくありますが、私は何とも思わないのです。これは実際に経験しなければ分からないことであり、然り、然り、否、否(マタイ5・37)と言う霊的直感の話だと思うからです。その直感こそ根拠です。

また私はスウェーデンボルグを読んだだけで人格は向上しないことも経験しました。それには悔い改めの実践が必要です。その実践をするためにスウェーデンボルグ以外の啓示が必要となりました。そしてそれでもまだ満足できず、聖母について学び、遂に聖母の意義を見出し、満たされました。聖母こそ私たちの母であり、母なる教会その方であることを知りました。

キリスト教の命は主(イエス・キリスト)が父なる神御自身であるという真理です。この真理こそ商人が探していた高価な真珠(マタイ13・45-46)であり、ペトロの上に教会を建てると主の仰ったペトロ(岩)のことであり(マタイ16・18)、新しいエルサレムの真珠で出来た十二の門(黙示録21・21)のことです。初代教会はこの主が父であること、そして聖母が母であり、母なる教会であることを知っていたと思います。それが真実でなければ人を感動させることは出来ませんし、キリスト教は普及しなかったでしょう。

しかしながら現代のキリスト教は主が父なる神御自身であり、聖母が母であり母なる教会その方であることをもう理解も信じもしていないと思われます。ですから一般の宗教研究者、信者ともに、彼らがキリスト教と思っているものは実はすでに命を失った形骸化したキリスト教です。それは私たちがアカシアと呼んでいる木が、実はニセアカシアで、本当はハリエンジュだったという話に似ています。マタイ24章の主の御言葉や黙示録では古いキリスト教の時代が終わり、新しいキリスト教の時代がやって来ることが予言されています。

私たちが主が神御自身であり私たちの霊的な父であることを知るには、自分(自我、自己理知の誇り)を否定しない限り不可能です。そして、聖母を霊的な母であり、母なる教会その方と理解するには、更にもっと自分を低くしなければならず、極めて困難です。そういう意味で、恐らく主と聖母を信じ、殉教までした我が国のキリシタンたちは私たちよりよほど純粋で霊的認識能力(理解する力、信ずる力)がすぐれていたと思います。

キリスト教を理解するために外国語で聖書を読んだり、キリスト教の歴史や文化を学ぶことが重要とは思いません。主は何よりも悔い改めを要求されましたが(マタイ4・17、ルカ13・3、5他)、外国語を要求されませんでした。子供のように素直になることを求められましたが(マタイ18・3-4)、学者のように知恵ある者になれとは仰いませんでした(マタイ11・25)。

三蔵法師によって額の輪をいきなり絞められた孫悟空のように、悪党の私は否も応もなく悔い改めることになりました。それは私を見かねてそうして下さった主の御慈悲であったろうと今本当に感謝しています。そうでなければ私は己の自己愛で破滅していたでしょう。

私などよりはるかに純真で善良な皆様の場合であっても、一から何を悔い改めなければならないか基礎的なことを学び、その実践をされない限りキリスト教は理解することも信ずることも出来ないでしょう。霊的なことは知識と実践抜きには分からないからです。

しかし、それらは唯一の教師である主(マタイ23・10)から学ばなければなりません。主から学ぶためには聖書を読む必要があります。しかし聖書だけを読んでも聖書は理解出来ません。聖書を理解するためには、主によって霊眼が開かれ、啓示を受けた見神者(けんしんじゃ、霊眼が開かれ神を見た人)たちによって書かれた本(啓示書)を併せて読む必要があります。彼らはおよそ誰も教えてくれない真理を教えてくれます。それは彼らへの啓示を通して主が私たちに直接語ってくださるからです。

また、それが主が雲に乗って再臨される(マタイ24・30)意味でもあります。主の再臨とは主が肉体をもって再び来られることではなく、啓示(啓示書)を通して個々人に来られることです。それは聖言(みことば)の内意(ないい)を明らかにされることです。栄光とは聖言の内意の意味です。雲に乗っての雲とは聖言の文字の意義を意味しています(真の基督教776他)。私たちが聖書を読んでいる時に、その文字上の意義だけではなく、新しい啓示(啓示書)によって聖書の霊的意義を理解させてくださるという意味です。

私はスウェーデンボルグはもちろん、その他の啓示書や聖書についても充分学んでいるわけではありません。キリスト教の一般常識も知りません。語学も出来ず、理解力も弱く、思い込みが激しいので間違いが多いかと思います。行いも心では分かったつもりでも、毎日が失敗と後悔の連続です。

そのような私の拙い証しが皆様が少しでも主と聖母を知るきっかけとなれば望外の喜びです。一人でも多くの皆様が聖書と新しい啓示書に直接学ばれ、主と聖母を見出し、幸せになられることを心から祈っております。

目次
はじめに
1.少年時代
2.中学1年生の時、男の人に土下座してお詫びする夢を見る
3.青年時代 キリスト教を敬遠する
4.傲慢で卑劣な自分に天罰が降る
5.スウェーデンボルグを読んで救われる
6.悔い改めて主を見出す
7.主は赦され、忘れてくださる
8.聖体拝領(聖餐)に与りたいと強く願うようになる
9.聖母は来るべき新しいエルサレムその方であることを発見する
10.受洗を決意する
11.カトリックに決める
12.スウェーデンボルグ以外にも新しい啓示はある
13.新しい啓示例
14.啓示には私たちの再生段階に応じた精製度合いの違いがある
15.両親に愛されてはじめて子供は幸せなように、これから父なる主と母なる聖母がおられる新しいキリスト教の時代が始まる
16.新しいキリスト教とは新しい組織、教派のことではなく、従来の組織・教派に属する個人個人の理解が新しくなること
17.主と聖母に親しむ時代が日本から来る
あとがき

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