著者:小さなヨハネ
ページ数:21

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まえがきより
前回、他民族の虐殺は神の命令ではなく、ユダヤ民族が神に命じられたと思っただけであったことをご紹介しました(「外観の法則1」ご参照)。また彼らがエジプトを出る時にエジプト人から金銀を奪うことを命じられたことも同様であり、生贄を捧げることについても神は決して命じられたのではなく許されたのだということを申し上げました。

今回は神が「顔を背ける」「怒る」「憎む」等についてです。神なる主はどこまでも慈悲の方であり、そのように聖書に書かれていても決して顔を背けたり、怒ったり、憎んだりされません。それは人間の主観(感覚の迷妄)に合わせた表現です。それを聖書における「外観の法則」と言います。

従来これらの表現のために旧約聖書の神は怖い神であると思われてきました。引いては一神教の神は恐ろしい、仏教の方が慈悲がある、多神教の方が優しいとまで言われるようになりました。しかし万物の創造主・神は唯一であり、どの(健全な)宗教も実は同じ神について説明したものであることは明らかです。神の名前や表現方法、教義が違うだけで、神が違うわけではありません。ではなぜ聖書の神、特に旧約聖書の神はしばしば怒ると書かれているのでしょうか? 

それは聖書はユダヤ民族が受け取った印象によって書かれているからです。彼らはモーセの昔からたびたびエホバ(ヤハウェ)に背いてきました。モーセが山に登っている間にもう金の子牛を作って拝んでいたのです(「ユダヤ崇拝という誤謬」ご参照)。人間は人に背けばその人を恐れます。まして神に背けば神を恐れるでしょう。ですから彼らはエホバを怖い神と思ったのです。しかし、それは彼らの「感覚の迷妄」であり、彼らにとっての神の「外観」です。旧約聖書は彼らの「外観」に基づいて書かれているのです。しかし、本当に神はそんなに怒る方なのでしょうか?

彼らが恐れた旧約聖書のエホバ(ヤハウェ)とは主イエス・キリスト御自身です。まだイエス・キリストとしてお生まれになってはいませんが、同じ方です。主が「アブラハムが生まれる前から、『わたしはある』」(ヨハネ8・58)と仰ったのはその意味です。『わたしはある』とは主がモーセに山で現れられた時に御自分を呼ばれた名です(出エジプト記3・14)。つまり、主イエス・キリストは旧約聖書のエホバその方なのです。

新約聖書には主イエス・キリストが優しい方であることの表現に満ちています。私たちもある人間に対し、その人間をよく知らない場合は強面(こわもて)で怖い人だと言うかもしれません。しかし、その人間の親切な行いや優しい人柄を知っていたら、善い人であると言うでしょう。それと同様です。神は受け取る人間に応じて開示され、啓示されているのです。

私たち日本人は神なる主は優しく慈悲の方であることを教われば、喜んで受け入れることが出来るでしょう。それは日本人が根が善良で素直だからです。しかし、恐らくユダヤ人は現在もそう受け取れないのだろうと推測します。つまり神はすぐ怒る神で、怖い方だと思うでしょう。それは彼らの国民性によるでしょう。ですから彼らは主イエス・キリストが父なる神御本人であることを未だに認めないのです。恐ろしい神がどうして人間のためにご自分を犠牲として擲(なげう)つほど親切だろうかと。

この「外観の法則」は聖言(みことば)の「内意(霊的意義)」と並んでスウェーデンボルグの2大専売特許です。この2つは彼の本を読む以外に知る方法はないと思われます。しかし、従来の並列的三位一体論 ◯=◯=◯ を信奉する殆どの学者も聖職者も、スウェーデンボルグを読まないでしょう。なぜなら彼は従来の並列的三位一体論を否定して主は父なる神御自身であるという重層的な三位一体論(◎)を主張しているからです(「キリストの御正体」「三位一体論の真相」ご参照)。

ちなみに三位一体論の根拠となっている「父と子と聖霊」という表現も主が父なる神であることを信じない人々のために彼らの受け取る外観に応じて書かれているのです。そして人間として見える主に神性を少しでも認めるようにするためです。

キリスト教のすべては主イエス・キリストが唯一の父なる神御自身であるという真理に基づいています。従って、それを信じなくなれば考えているすべては誤謬であり、砂上の楼閣となります。つまり、真理の知識ではありません。「その苦難の日々の後、たちまち太陽は暗くなり、月は光を放たず、星は空から落ち、天体は揺り動かされる」(マタイ24・29)の星が落ちるとは霊的知識がなくなった現在の状態を意味しています(天界の秘義1839 [2])。

もちろん、これらを知らなくても、主を無意識のうちに父なる神と認識し、主の掟を守り、主に信頼している純真なクリスチャンに問題はないでしょう。しかし、知った方が良いに決まっています。それにそこまで教えられなければ異邦人である私たちはキリスト教を理解するのは困難です。キリスト教国のクリスチャンでさえ今やキリスト教を理解していない(!)のですから。

私自身、スウェーデンボルグを読んで初めてキリスト教に納得しました。「外観の法則」や聖言の「内意」の説明以外に、三位一体論や刑罰代償説、予定説の誤りなど、スウェーデンボルグの説明を読まずにどうして不可解で不合理なキリスト教を信ずることが出来るでしょう。なお、キリシタンがキリスト教を信じたのは、恐らく当時の宣教師は三位一体論を唱えなかったためであろうと思われます(「三位一体論の真相」ご参照)。

これらを知り、理解し、行い、本当のクリスチャンとなってキリスト教を世界に広めることは日本人に課せられた義務であり、同時に栄誉ある使命と思います。これを成し得るのは旧来のキリスト教の誤謬に染まっておらず、善良かつ知性的な日本人をおいて他にないでしょう。日本人の99%が非クリスチャンであることは、新しいキリスト教の宣教者として特別に神にとっておかれたのだと私は考えています。

西欧文化を知るうえでキリスト教を学ぶことは必須であると言われます。しかし、新しいキリスト教の発想は全く逆です。日本人がキリスト教を世界に教える(!)時代が来るのです。

しかし、心から真理を求めている人でなければ新しいキリスト教を理解することは出来ないでしょう。いえ、理解しようとしないでしょう。それは主が「見ても見ず、聞いても聞かず」(マタイ13・13)、「聞く耳のある人は聞きなさい」(マルコ4・23)と仰っている通りです。人間誰しも自己愛と世間愛にまみれているうちは無理です(「自己愛」「世間愛」ご参照)。神と富とに仕えることは出来ないからです(マタイ6・24)。私が私などよりはるかに純粋で善良、優秀な皆様に期待する所以です。

キリスト教を理解するためにはこの外観の法則等、細かなことを学び、一つ一つ知識を積み上げて行かねばなりません。そうでなければ視力は弱いままです(「9.11テロ レアの目は弱かった」ご参照)。知識が無ければ信仰も空疎です(スウェーデンボルグ『信仰』28)そしてそれは人知による神学ではなく、スウェーデンボルグなどの見神者による啓示書に学ぶ必要があります。彼らは神の預言者です。唯一の教師である主は彼らを通して語られるからです。

私がご紹介しなくてもいつか皆様はそれを発見するでしょう。しかし、それには大変時間と労力がかかります。天然真珠が出来るのを待っているより、核と外套膜の小さな切片を入れる方が早く確実に真珠が出来るでしょう。皆様がこの拙い紹介をきっかけに直接スウェーデンボルグや他の啓示書に学ばれ、核を作り、純粋なキリスト教信仰を形作られるならば幸いです。

我が国の養殖真珠は世界を席巻しました。発明者御木本幸吉翁は昔、フランスの宝飾業者から彼の真珠はインチキであると訴えられました。しかし、それは本物の真珠であることが正式に認められ彼は勝訴しました。真理を追求してやまない皆様によって、日本発のキリスト教が真正なキリスト教として世界に認められ、広まる時が来るでしょう。

目次
まえがき
1.一神教の神は恐ろしい?
2.神が怒るという表現が聖書にたくさんある
3.人間が悪を行うとき、神から顔を背ける
4.彼らが罰せられたとき、彼らは怒られ、激怒されていると信じた
5.神が顔を向けることは慈悲を意味する
6.神が顔を隠すことは慈悲深く見えないこと、しかし神は決して顔をそむけない
7.罰することも慈悲、エホバが悔いる
8.エホバが憎む
9.それらは受け取る側の外観によって書かれている
10.ユダヤ民族は恐怖、畏怖を感じ、刑罰と受け止める必要があった
11.主は邪悪な者を地獄の火に投げ込まれる? 感覚の迷妄
12.シナイ山で律法が布告されたとき人々から見られた『煙』と『火』、主はその者の性質に応じて現れたもう
13.現代も同様、悪にまみれている私たちは一神教の神・主を怖いと思い、主を直接見ることが出来ない、預言者に聞くこと
あとがき

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